日本の城ある記(北海道東北の城・蝦夷 松前城) 

 北海道・東北の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 松前城(福山城) (まつまえじょう・ふくやまじょう)

訪問記
 雪の季節に北海道を訪ねてのお城見物は無茶な話と自認はしているが、たまたま安い旅行代金で訪れることができたので強行した。もっとも後で調べたら同じような料金で季節を問わず訪れることはできたようだ。
 出発前に松前町の観光課に電話して城内の雪の状況を聞く。積雪のため城跡へ行くことはできないのではとの当方の心配に、心配していることが理解できないといった口調で”道路は除雪されているので問題ない”との回答。ただし資料館は冬季閉鎖されており、再建された天守の写真を撮ることしかできないとのことだった。
 前日に函館に宿泊し朝の8時8分発の特急で木古内に向かう。木古内からはバスに乗り換えて約1時間30分の乗車で松前まで行くことになる。横浜から函館まで同行のカミさんは長時間バスに揺られることが耐えられないというので松前行きは別行動となる。夫婦二人の小旅行とはいえ四六時中同じ行動をとるのも互いに疲れる。それに歳をとると互いに我儘になり、また忍耐力も低下する。この先も長く暮らすためには互いへの遠慮や我慢は最小限にした方がいい。
 バス停から松前城址までの道路は、役場の人の話の通り除雪はされている。とはいえ、ところどころに雪は残り、場所によっては凍っている。天守閣は丘の上に建っているので、そこまでは坂道や階段を登ることになる。完全に除雪されているのは街中の道だけで、本丸に登る坂道には結構雪が残っている。地元の人には何ら問題のない道も、雪国に暮らしたことのない者にとっては通行することを躊躇う気持ちにさせる。雪用の靴を履いてはいるが普通に歩く場合の倍の時間と体力を使う感じだ。それでも何とか本丸に到着。雪景色の天守を見る。天守前の広場からは津軽海峡を見渡すこともできる。雄大な眺めにこの季節に訪れたことの後悔が吹き飛ぶ。帰りのバスが来るまでの約2時間、寒さと闘いながら城跡を散策する。城内には約8千本の桜の木が植えられているという。時間とお金に余裕があれば桜の花の咲く頃にもう一度訪れたい。そういえば今年中には北海道まで新幹線で行くこともできるようだ。(2015年1月13日)
松前城は福山城とも呼ばれる。慶長9年(1604)家康より蝦夷地の支配を許された松前慶広が現松前城の建つ”福山”の地に陣屋を築いたのが始まり。陣屋は福山館と呼ばれ慶長11年(1606)に完成した。松前慶広の祖先は室町時代の若狭武田氏の子孫である武田信広とされる。信広は当時陸奥、出羽、蝦夷で勢力を誇っていた安東政季(まさすえ)から蝦夷地支配を任じられていた蠣崎季広(かきざきすえひろ=若狭武田氏の縁者)の後継者となり、当初は蠣崎姓を名乗っていた。
 信広の子、松前慶広の時代になって豊臣秀吉の臣下となり安東家の支配から離れ、慶長4年(1599)には徳川家康に服している。江戸幕府となり、当初は蝦夷島主として客臣扱いであったが5代将軍綱吉の時に旗本待遇となり、享保4年(1719)になって1万石以上の格が認められて大名となった。
 当初より城は築かれなかったが、ロシア艦隊の来航などに伴い北方警備の必要から 嘉永2年(1849)に幕府から築城を命じられる。松前城は同時期に海洋警護の目的から築城を命じられた福江藩(長崎五島)の石田城とともに日本最後期に築かれた日本式城郭。また、松前城は北海道内では唯一の日本式城郭である。

 
松前城の縄張りは当時の三大兵学者の一人とされた高崎藩の市川一学によって行われる。嘉永3年(1850)に築城を開始し安政元年(1854)に完成する。本丸、二の丸、三の丸を配置し、6基の櫓、16の城門を備え、天守(三重櫓)が建てられた。また、古式城郭ではあるが海側に近い三の丸には7基の砲台が築かれて近代要塞の顔も持っている。外国船の襲来に備えた城であったが、ここで戦闘があったのは戊辰戦争の末期、榎本武陽が率いる幕府反乱軍との攻防。明治元年(1868)土方歳三が率いる700名ほどの軍勢によって落城する。元々海からの攻撃に備えた城で、山側(北側)の搦め手の防御は貧弱であったため数時間余りの戦闘で落城したという。 
 明治4年(1871)の廃藩置県後、天守(三重櫓)、本丸御門、本丸表御殿玄関以外の建物は破却され、また石垣の一部は松前波止場の岸壁整備に用いられている。戊辰戦争、太平洋戦争にも残った天守であったが、昭和24年(1949)に役場からの失火による類焼で焼失。本丸御門は焼け残り国の重要文化財に指定されている。天守は昭和36年(1961)に鉄筋コンクリート造りで再建された。
 


 松前藩 歴代藩主
家紋  入封時期  禄高  入封時藩主   
慶長9年
(1604)
1万石格 松前慶広(外様) 慶長9年(1606)徳川家康より蝦夷地支配を認められる。
享保4年(1719)1万石格となる。 

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.