日本の城ある記(北海道東北の城・五稜郭) 

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 五稜郭  (ごりょうかく)

訪問記 
 
五稜郭を訪れたのは今回で2度目。もっとも最初に訪れたのはちょうど50年前のことだから記憶も薄れている。高校2年から3年生になる春休みに2週間ほど一人で北海道を旅行した。東京から四人掛けボックスシートの夜行列車で青森へ行き、そこから青函連絡船に乗って函館に着いた。函館に着いたのはまだ暗い早朝だったと記憶しているので、青函連絡船も夜行だったと思う。古いアルバムを探し出してその時に五稜郭を写した写真を見つけたが、白黒写真でたった2枚しかなかった。50年前の写真の風景と同じ様な場所を今回も写真に撮ってみた。上の写真と下の写真がが今回撮った写真だが、50年前の写真と見比べてみるとさほどの違いが無い。ただし、五稜郭タワーに登って写した今回の写真は五稜郭全体が写っているが、50年前の写真では半分しか写っていない。カメラの性能の違いもあるのだろうが、50年前の五稜郭タワーは今のタワーの半分ほどの高さしかなかったと思う。普通のカメラで全体を写し込むには無理だったと思う。
 50年前に訪れた時、五稜郭の中に立ち入ることができたかどうか記憶にない。仮に立ち入ることができたとしても、おそらく中には入らなかったのではないか。当時は歴史にも、まして城郭そのものにそれほどの興味もなかった。堀の外から城壁を眺め、五稜郭タワーから全体を見渡せばそれで充分だった。ただし今回は違う。函館を訪れた主目的は五稜郭を見学するため。平成18年(2006)に完成した展望台の高さ90mの新しい五稜郭タワーに登り、五稜郭の全体を見渡してから地上に降りて城郭の中に立ち入る。
 五稜郭は旧幕府脱走兵と明治新政府軍との壮絶な戦いの主戦場となった歴史があるが、真っ白な雪に覆われた姿からはそれを想像することができない。平成22年(2010)になって”箱館”奉行所の建物が復元されたが、それすらのどかな田舎の役場の雰囲気がする。人を寄せ付けない防御のための要塞が、何故だか誰でも自由に入ることのできるテーマパークの施設のような気分にさせる。日本の伝統的な城郭とは違う西洋式の城郭がそんな気分にさせるのだろうか。
(2015年1月12日)
 
 安政元年(1854)の日米和親条約締結により下田と”箱館”が開港されることになる。因みに神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)が開港されることになったのは安政5年(1858)の日米修好通商条約による。
 江戸幕府は和親条約締結によりそれまで松前領であった箱館を幕府直轄地として箱館奉行所を設置する。当初は函館山の麓に奉行所を置いたが、海岸から近くまた函館山から腑眼できることから防御に適さず、箱館奉行堀利煕の進言により幕府は安政4年(1857)に当時は湿地帯であった亀田の地に築城を開始する。城郭の設計は箱館奉行所で機械製造、弾薬製造を務めていた諸術教授役の武田斐三郎による。武田は安政2年(1855)に箱館に入港したフランスの軍艦コンスタンティーヌ号の副館長の指導を受け、西洋式稜堡の絵図面を写して五稜郭設計の参考としたという。
 築城時の名称は「亀田御役所土塁」といった。工事の名称のとおり、城郭は当初は土塁を主体としたものであったが、冬期の凍結・融解により土塁が崩れることから石垣も併用された。最盛期で5,6千人の人夫が雇われた工事は元治元年(1864)に竣工する。しかし、慶応3年(1867)に幕府が大政奉還すると、慶応4年(1868)箱館奉行所は新政府に引き継がれる。更にこの年、五稜郭は榎本武陽が率いる旧幕府軍によって占領される。榎本は蝦夷共和国(旧幕臣の生活救済のため蝦夷地開拓が主目的であったという)の設立を目指して五稜郭をその拠点とする。翌年の明治2年(1869)旧幕府軍は最後の拠点として五稜郭に立て籠もり新政府軍と戦うが降伏。五稜郭は新政府軍に引き渡される。これにより戊辰戦争は終結する。

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