日本の城ある記(北海道東北の城・弘前城) 

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 弘前城  (ひろさきじょう)

訪問記
 それほど昔のことではないが、弘前城を一度訪れたことがある。横浜から車を飛ばし、八戸、下北半島を観光。青森から十和田湖へ向かう途中に立ち寄った。当時はデジタルカメラが普及しておらず、私のPCに写真データは入っていない。旅の記憶を呼び戻そうとアルバムを探したが、この時の旅行の部分だけがどうしても見つからない。いや、そもそも、いつ旅行をしたのかはっきりとした記憶がないが、季節は6月であったこと、ちょうど下北半島の大間の温泉施設に宿泊した時、関西の小学校で襲撃事件があり多数の学童が死亡したとのニュースを見た記憶がある。これをたよりに調べてみると、大間に宿泊した日は2001年の6月8日であった。したがって前回弘前城を訪れたのはその2日ほど後のことだと思う。ここまでは記憶を呼び戻したのだが、弘前城での記憶が完全には戻らない。桜の季節でもなかったし、同行のカミさんはお城見物に興味はなく、私自身も当時は城見物にそれほどの執着心はなかった。だから、おそらく天守閣を見ただけで足早に立ち去り写真に残すこともなかったのかもしれない。今回も旅の第一の目的はお城見物ではない。前日に三沢基地で開催された航空ショーを見学するため。その帰路に立ち寄ったもので、お城見物よりは岩木山の麓のリンゴ畑に行きたいというカミさんの希望を交通事情が悪いことを理由に断念させてのこと。実は私は8月の始めに胃の手術を受けて退院したばかり。旅行は3か月前に計画したもので、せっかく宿を押さえたのでキャンセルするのも癪であり、それになによりこの機会を逃せば次に訪れるのがいつになるかもわからない。現在は抗癌剤の治療中で、その副作用なのか気分は最悪の状態だが、その気晴らしもあって、止めるカミさんを強引に連れ出しての旅行である。無論、車を利用しての旅行は諦め鉄道、バスの旅である。
 弘前城は初代弘前(津軽)藩主津軽為信(つがる ためのぶ)が慶長8年(1603)に鷹岡(現・弘前)に築城を開始するが、慶長12年(1607)に京都にて死去したため城の完成が遅れ、為信の三男で2代藩主の津軽信枚(つがる のぶひら)が慶長14年(1609)から築城を再開して一年余りで完成させた。以来、明治維新に至るまで改易されることなく津軽一族が藩主を務めている。
 初代藩主の為信の出自は諸説あるが天文19年(1550)南部氏の一族である久慈守信の嫡男として生まれ、永禄10年(1567)に南部氏の一族・大浦為則の娘・阿保良(戌姫)と婚姻し婿養子となって大浦城(現在の弘前市賀田あたり)の城主となったとの説が有力のようである。この時は大浦為信と名乗っている。出自はともかく、元亀2年(1571)為信はそれまで津軽を支配していた南部氏の一族で石川城(現・弘前市内)の城主・石川高信を攻め自害させる。南部家の最盛期を築いた南部宗家の南部晴政が天正10年(1582)に亡くなると、その家督相続争いに乗じて為信は津軽地域に残る敵対する諸城を攻略して津軽一帯の支配権を確かなものとする。また天正10年(1582)に明智光秀の謀反により信長が本能寺で討たれ、その光秀を討ち取った豊臣秀吉は着々と全国統一にまい進する中、為信は天正17年(1589)に石田三成の仲介で家臣を上洛させ、津軽三郡と合浦(現青森市の一部)の所領を安堵される。秀吉は天正18年(1590)に北条氏討伐のための大軍を引き連れて小田原に出陣するが、このとき為信は沼津の三枚橋城に赴き秀吉に謁見している。為信は南部宗家を継いだ南部信直から「惣無事令(同族、大名間の私闘の禁止令など)」に違反する謀反人であると訴えられていたが、石田三成などの口添えもあり、為信の釈明が認められて独立した大名の扱いを受ける。ただし秀吉の”奥州仕置”にともなう検地で所領4万5千石のうち1万5千石は豊臣家の直轄となる。こののち為信は久戸政実の乱の討伐、文禄、慶長の役への出兵、伏見城普請などに従事し功績をあげる。文禄3年(1594)に居城を大浦城から堀越城(現・弘前市川合、柏田地域)に移している。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦では為信と三男の信枚は東軍に与したが、嫡男である信建(のぶたけ)は豊臣秀頼の小姓衆として大阪城に詰めていた。関ヶ原で西軍が敗れると、信建は同じ秀頼の小姓衆であった石田三成の次男・重成を助けて津軽へ逃れている。重成はその後杉山姓を名乗り、重成の嫡男である吉成は弘前藩2代藩主となった信枚の娘を妻とし、弘前藩の重臣となり、子孫も代々重臣を務めて存続したという。なお、為信は関ヶ原の功績で2千石が加増され、4万7千石の所領となる。また、長男の信建は慶長12年(1607)に京都で病死し、その見舞いに行った為信も同年に京都で病死している。
 2代藩主信枚が完成させた弘前城は本丸を中心として、二の丸、三の丸などの曲輪が取り囲む輪郭式の城構え。本丸は総石垣造りの城壁であるが、その他はすべて土塁である。本丸には五層の天守が建てられたが、寛永4年(1627)に落雷により焼失。現在は文化7年(1810)に南東隅の辰巳櫓を改築した御三階櫓を天守代用としている。ただし、平成27年に石垣修復のため天守を約70メートル本丸の内側に移転している。石垣の修理は10年ほどかかるとのこと。
 弘前城には江戸時代からの現存する建物も多い。天守代用の御三階櫓をはじめとして、二の丸にはいずれも三重櫓である辰巳櫓、未申櫓、丑寅櫓。二の丸の南内門、東内門、三の丸には追手門、東門。北の丸には北門が現存している。そしてなりより弘前城を有名にしているのは桜の季節。一度は訪ねてみたいと思っているのだが、果たして実現できるのだろうか。(2017年9月11日)
 


  探していた2001年6月に訪問した時の写真が見つかりました。掲載した写真以外にもたくさんの写真が残っており、どうやら記憶と違って弘前城全体を見て回っていたようです。三階櫓は本来の位置に建っていました(2018.03.16)

弘前(津軽)藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
慶長5年
(1600)
4万7千石 津軽為信(外様)関ヶ原の功により2千石加増されて所領を安堵される。

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