日本の城ある記(北海道東北の城・根城) 

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 根城  (ねじょう)

訪問記
 根城(ねじょう)は建武1年(1334)に南部師行(なんぶ もろゆき)によって馬淵川の南岸段丘に築かれた平城。現在の八戸市街地の西端にあり本丸のほか八つの曲輪が連なる連郭式の縄張りを持つ。本丸の広大な敷地に主殿、工房、納屋、馬屋などの建物が復元整備されている。
 南北朝時代から江戸時代初期までの約300年間存続した城だが、この城が最も充実していた時代は室町時代のようで戦国時代、江戸時代に近代的な城郭として改修ははされなかったようだ。もっとも、その分石垣で囲まれた城とは異なる何とも言い難い独特な風景に心が和む。おそらく幾度となく殺伐とした戦闘が繰り返されたのだろうが、そんなことを感じさせない長閑な空気が漂っている。ここでは鎧兜をまとった武将たちの姿ではなく、男なら烏帽子、女なら市女笠(いちめがさ)をかぶり、まったりとした直垂や小袖姿で歩く人の姿が似合っている気がする。
 南部師行は甲州の武将で、南部氏の庶流の波木井南部氏を継承していた。南朝・元弘3年(1333)、新田義貞による鎌倉攻めに参戦し武功を立てる。これにより鎌倉幕府は滅亡する。
 鎌倉幕府が滅亡し、天皇家は南朝と北朝に分裂していたが南朝の後醍醐天皇の建武の新政(建武の中興)が始まり、南朝・元弘3年(1333)に南朝方の武将である北畠顕家(きたばたけあきいえ)は鎮守府将軍として後醍醐天皇の皇子・義良親王(後の村上天皇)を奉じて陸奥に下向。南部師行はこれに同行し国代に任じられて、糠部郡八森に城を築く。この城を「根城」と名付けた。「根城」と名付けたのは南朝の根本の城との意味付けと言われるが、しかし建武の新政は長く続かなかった。建武2年(1335)鎌倉幕府最後の執権、北条高時の遺児・北条時行が北条家再興を目論み信濃で挙兵。これに北条家の残党や反新政の勢力が集まり、鎌倉を占拠するほどの規模となる(中先代の乱)。後醍醐天皇は足利尊氏を”征東将軍”に任じ、尊氏は鎌倉を占拠する北条軍を打ち破るが、今度は尊氏が新政に反旗を翻す。南朝・延元3年(1338)北畠顕家と南部師行は足利尊氏討伐に遠征するが、和泉国で北朝側の高師直と戦い、これに敗れて北畠顕家、南部師行ともに戦死する。
 師行の死後、家督は弟の政長が継ぐ。奥州の豪族の多くが北朝側につくが、政長は尊氏からの北朝に帰順を促す申し出を拒み、あくまで南朝側として四方の北朝側勢力と戦闘を繰り返した。しかし全国的に南朝勢力が劣勢になると南部氏も次第に弱体化してゆく。
 天下の趨勢が二転三転するなか政長は南朝・正平15年(1360)に死去。政長の嫡男・信政は既に死去していたので孫の信光が家督を継承して根城の城主となる。なおこの時、信光の弟・南部政光が七戸城の城主となる。南朝・天授2年(1376)に信光が死去。信光の子が幼少であったため、七戸城の政光が根城を継ぐ。
 一方、三戸南部家の南部政行は当初は南朝側にあったが南朝・正平1年(1346)に足利尊氏の調略に応じて北朝側に寝返り、南朝方を切り崩して次第に勢力を伸ばしていった。南朝・元中9年(1392)南北朝が合一されると三戸南部家の政行の子・守行は根城の南部家を北朝(室町幕府)に帰順させて三戸南部家の統率下に置いた。
 秀吉による小田原征伐の際、当時の三戸南部家の当主・信直は秀吉に帰参し、南部7郡の所領を安堵され、根城も三戸南部家の支配下に置かれる。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で三戸南部家は東軍に与し、家康より従来の所領をそのまま安堵される。また寛永4年(1627)には根城の八戸直栄を遠野へ移し、これにより根城は廃城となる。なお、南部家の歴史は複雑で異説も多くあり、記載内容については確証のないものも含まれています。(2017年9月9日)

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