日本の城ある記(北海道東北の城・盛岡城) 

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 盛岡城  (もりおかじょう)

訪問記 
 盛岡を訪れたのは何年振りのことだろう。仕事で何度か立ち寄ったが、それは新入社員の頃のことで、もう40年近く前のことになってしまった。訪れた季節は夏のこともあったが何故か思い出すのは雪景色の盛岡。当時はもちろん新幹線はなく上野から東北本線の特急を利用した。時には夜行列車に乗ったこともある。今なら新幹線で3時間ほどで到着するが、あの頃はずいぶん長く列車に乗っていたように思う。出張はほとんどの場合一人で、まさしく旅をしている感覚だった。冬の始まりの季節だったと思う。盛岡からの帰り、私が乗車した深夜に上野駅に到着する特急列車には食堂車が付いていた。正確に記憶していないが食堂車には4人掛けのテーブル席が20ほどあった。退屈さを紛らわすため食堂車で食事をすることもたまにはあった。もっとも一人で食事をするだけなので退屈であることにそれほどの変わりはない。しかしその日はちょっと違った。その日の食堂車はそれほど混雑はしていなかったように思う。私はテーブルを独り占めして食事をしていたが、突然、女優の宇津宮雅代によく似た女性から合い席してもよいかと声を掛けられた。ちょっとあわてた私は声が出ず、軽く会釈して同意した。彼女は食事を頼まなかったと思う。コーヒーか何かの飲み物を注文しただけだ。食事が終わり、私は煙草を取り出して彼女に吸っていいかと目で確かめた。当時の列車には禁煙車両はなかったと思う。座席指定の特急列車なら車内で吸うことも可能だった。たばこを吸うのにいちいち周りの人の同意を求めたりすることは、少なくとも私の習慣にはなかったが、その時は何故かそうすることが当然のように感じた。彼女は同意する代わりに自分のバックからライターを取り出し、私が口にくわえた煙草に火をつけてくれた。ついで、彼女も煙草を咥えて、少し微笑んで(そんな風に感じた)たばこに火をつけた。吸い終わり、何かの挨拶程度の会話を交わしたと思うのだが何を話したのか記憶にない。今なら気のきいた会話ぐらいできただろうが、当時の私は見知らぬ女性と長く話をすることが苦手で、間のあいた気まずさに彼女を残して先に席を立った。それだけのことだが今も覚えている。普段思い出すことはないが、盛岡の名を聞くとその当時の未熟な私と共に甦ってくる。
 盛岡城は出張の折、盛岡に宿をとった時に二度訪れた。一度は雪の深い冬の日だった。朝、まだ朝食前に駅前のホテルを抜け出し、歩いて盛岡城までいった。北上川を跨ぐ開運橋を渡り、商店街を抜けて盛岡城は20分ほどの距離だ。商店街で人に逢うことはなかったように思う。しかし、ここまでの道は除雪されて歩くことに不便はなかった。が、城内は深い雪に閉ざされて立ち入ることができない。お堀の外から高石垣を眺めただけで帰るしかなかった。二度目は夏の日の夜だった。夕食の後、ほろ酔い気分で城跡を散策しようと出掛けた。城跡は薄明かりに包まれて夏の暑さを忘れさせてくれる快適な気分だったが、それも最初の内だけだった。周りの雰囲気が良くなかった。独りで当てもなく歩く私は、不審者に思われていたのかもしれない。酔いも覚めて急ぎ足になって宿に戻った。
 今回、同じように盛岡駅前のビジネスホテルに宿をとり盛岡城を訪ねた。三度目の訪問だが、何だかすべてを知っているような懐かしい気持ちになる。本丸への坂道を上り石垣の上から盛岡の町を眺めるのだが、初めて見る光景が以前に目にした光景のように思える。40年の歳月は盛岡の町並みの景色を変えた。あの頃は高層ビルを目にすることはなかったと思う。今は駅周辺や、北上川に沿った場所に高層のマンションやホテルが立ち並んでいる。私の記憶にある木造の古い街並みのイメージはない。お城も、ちょっとひなびた東北の街に佇む古城のイメージだったが、今は明るい開放的な公園の雰囲気だ。季節の所為でもあるかもしれない。それでも、妙に懐かしく感じてしまう。今と昔と、盛岡城は私の心の中では何時までも変わりのない古城の雰囲気を残してくれている。(2012年7月8日) 
  
 盛岡藩の南部氏は鎌倉御家人の系譜をもつ大名。南部一族には盛岡藩の他、八戸藩、七戸藩がある。南部氏の出身は甲斐巨摩郡の南部郷。奥州南部氏の成立は加賀美二郎遠光の三男(南部光行)が文治5年(1189)奥州平泉の藤原氏攻撃に従軍し、合戦の功によって奥州糠部郡を拝領したときから。ただし、資料として確認できるのは南北朝時代以降とされる。
 盛岡城は天正18年(1590)天下統一を果たした秀吉から所領を安堵された南部信直が文禄元年(1592)に当時は不来方(こずかた)城と呼ばれた地に築城を開始すべく整地を始める。慶長3年(1598)から本格的に築城を始めたが、北上川や中津川の氾濫などもあり難航し、慶長年間には総石垣の城としてほぼ完成したが、すべてが竣工したのは3代藩主重直の時代の寛永10年(1633)になってから。南部家は関ヶ原の戦で東軍方に加担し、家康から所領を安堵されて幕末まで盛岡城を居城とした。 
 城は西部を流れる北上川、南東部を流れる中津川の合流地点の花崗岩丘に築城された連郭式の平山城。本丸、二の丸、三の丸が直線的に配置され、本丸を取り囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪が配置されている。本丸と二の丸の間の空堀には、築城当時は屋根の付いた廊下橋で結ばれていた。内曲輪と呼ばれた城の中核部分はすべて石垣で築かれており、土塁の多い東北地方の城では珍しい。本丸には天守台が築かれたが、徳川幕府に遠慮して天守は築かれず三層櫓が天守の代用とされた。南西隅には二層の櫓がつくられた。櫓の瓦は厳冬対策のため高温で焼いた赤瓦が葺かれていたという。本丸御殿は本丸の面積が狭いため、三階建の構造になっていたという。また、表御殿は二の丸に造られ機能を分散する工夫をしていた。天保13年(1842)になって櫓は天守と改名された。現在城跡には建物は残っていないが、城址公園として市民の憩いの場になっている。
 


盛岡(南部)藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
天正18年
(1590)
10万石 南部信直(外様)秀吉より所領を安堵される 慶長5年(1600)信直の嫡男・利直が関ヶ原で東軍に加担し、所領を安堵される。  

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