日本の城ある記(北海道東北の城・多賀城) 

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 多賀城  (たがじょう)

訪問記
 JR東北本線の国府多賀城駅で下車。目の前に国司の館跡と推定されている丘が見える。3メートルほど土を盛ったか、あるいは丘陵地を削って平らにならしたものか見た目だけでは分からないが、付近の地形から推測すれば丘陵地を平らに整地したものと思われる。ここに四面庇(ひさし)付きの主殿のほか、六棟の建物が建っていたと推定されている。国の特別遺跡に指定されているとのことだが考古学に興味がなければそのまま素通りする程度の遺跡である。
 国府多賀城駅の案内所に備えられていたガイドブックのモデルコース(史跡コース)に従って館前遺跡→外郭築地塀跡→外郭南門跡→多賀城碑へと進む。朝夕は寒さを感じるが日中は陽射しがあれば春、いや初夏のような陽気。気温は20度近くあるようだ。訪れたのは11月の初旬。横浜在住者にとって東北は寒さをイメージする地域。用心のために着込んだ防寒具を脱ぎ、長そでシャツと半そでのポロシャツの重ね着姿で進む。それでも歩けば暑さを感じる。多賀城碑(壺碑)は高さ約2m、巾約1m、厚さ70cmの巨大な石に京都などからの多賀城まで距離、天平宝字6年(762)に藤原恵美朝臣朝〇(ふじわらのえみのあそんあさかり)が多賀城を修造したことが書かれている。碑は歌枕「壺碑・つぼのいしぶみ」として有名で、元禄2年(1689)松尾芭蕉がこの碑と対面、その時の感動を「奥の細道」に書き残しているという。壺碑は一間四方ほどの大きさのお堂の中に据えられている。
 壺碑を納めたお堂のすぐ北側には結構交通量の多い道路が通っている。その道路を渡り北にほぼ真直ぐに進むと多賀城政庁跡にたどり着く。多賀城は蝦夷の制圧・統治を目的として神亀1年(724)に按察使・大野東人(おおのあずまひと)によって築かれ、陸奥国府、鎮守府が置かれたのが始まりとされる。以降、11世紀中頃まで東北地方の政治・文化・軍事の中心として機能した。仙台湾、仙台平野を一望できる丘陵地に立地し、敷地は一辺が1kmほどのいびつな四角形で塀に囲まれていた。そのほぼ中央に東西103m、南北116mの政庁が置かれ、築地塀を巡らしていた。
 政庁は戦乱や災害により建物配置が変貌し、その概要は大きく4期に分けられている。「第1期」は神亀1年(724)の大野東人の創建時。「第2期」は天平宝字6年(762)の藤原恵美朝臣朝〇による大改修。「第3期」は宝亀11年(869)、伊治公砦麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱による焼失からの復興。「第4期」は貞観11年(869)の陸奥国大地震からの復興。写真の復元模型は第2期の政庁と思われます。正面入口には東西に翼楼が付随した南門を配し、石敷きの広場を通って中央に正殿、東西に脇殿および見張り台と思われる櫓、さらに正殿の後ろに後殿、北殿を配置している。
 私のような歴史素人的には多賀城は坂上田村麻呂と同一のイメージとして記憶されている人が多いのではないか。坂上田村麻呂は延暦15年(796)に陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍に任ぜられ、翌年には征夷大将軍を任じられている。田村麻呂は3度蝦夷討伐に遠征し武勲を立てている。
 蝦夷地が平定され、東北各地が地頭などの武家集団による支配に移行すると多賀城の政庁としての機能は消滅する。しかし軍事的な意味では機能していたようで、東北地方の豪族による戦乱「前九年の役(永承6年・1051〜)」「後三年の役(永保3年・1083〜)」では軍事の拠点として活用され、また南北朝時代の後醍醐天皇による「建武の新政」では陸奥守に任じられた畠山顕家が義良親王(後の村上天皇)を奉じて多賀城に陸奥将軍府を置いている。ただしこれ以降多賀城が重要な役割を演じて歴史に登場することはなかったようだ。300年ほどの長きにわたり歴史に名を刻んだ多賀城跡は一旦は消え去ったが、近年になって整備復旧され現代人に再び古代人の思いを伝えているようだ。(2017年11月6日)

館前遺跡(たてまえいせき)   多賀城碑 壺碑(つぼのいしぶみ)

 多賀城廃寺跡

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