日本の城ある記(北海道東北の城・仙台城) 

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 仙台城  (せんだいじょう)

訪問記 
 仙台の町には数えきれないほどではないにしろ、すべてを思い出せないくらいに何度も訪れている。直近ではサラリーマン生活最後の時期にも訪ねている。それでももう4年も前のことになってしまった。頻繁に仙台を訪れた時期はバブル経済の後始末の時期。決していい思い出ばかりではない。失われた10年というが、個人的には失われた20年、いやあれ以来失われた時代は継続している。未だに後遺症から抜け出せないでいる。こうなると、それが人生そのものになってくる。どうせなら墓場まで付き合ってやろうかと、そんな気分にもなっている。
 それはともかく、仙台を訪れて仙台城に立ち寄ったのは純粋に観光目的で訪れた一度だけ。それも何かのついでで、本丸に立つ伊達正宗像を見ただけ。今回は仙台城を訪ねることを目的の一つとして旅のスケジュールを組んだ。震災で壊滅的な被害を受けた三陸海岸の町をこの目で確かめたいと思いついた旅の最後に仙台に立ち寄った。この仙台市も仙台空港辺りの沿岸部は甚大な被害を受けている。悲惨な状況はメディアの報道以上だ。自分にできることは何もないに等しいが、がんばろう日本は掛け声ではなく日本人の使命として素直に受け入れられる言葉になった。
 仙台城は誰でも知る伊達正宗が居城とした城。壮大な規模の城郭を想像していたが、残念ながらそれを確かめることはできなかった。大手門から本丸へ至る道路は震災によって石垣が崩れたために通行不能。徒歩では可能だったので歩いてみたが大手門脇の隅櫓は修理中。震災の影響はここにもあった。本丸に築かれた高石垣は伊達62万石に相応し見事なもの。しかし本丸跡地は神社の敷地となっていてお城の雰囲気がない。それにしても温泉地で呼び込みをする土産物屋のような何とか会館の存在は興ざめする。前に訪れた時はこれほどではなかったように思う。しかも、本丸敷地全体がコンクリートで舗装されているのは何のためか。雨の日を想定してのことのようだが、城という観光資源を生かしていないように感じる。城郭の敷地の大部分が東北大学のキャンパスとなっているようで、広大な敷地全体が確認できないのは致し方ないとしても、観光資源として城跡を残すのであればもう少し工夫があってもいいのではないか。ともあれ、せっかく仙台城に来たので、本丸跡にある神社に東北復興、がんばれ日本を祈願して帰ることにした。  (2012年7月10日)
 
 仙台城は青葉山に築かれた平山城で、青葉城とも呼ばれている。伊達正宗が関ヶ原後の慶長5年(1601)から築城を開始し、慶長7年には一応の完成をみた。当初正宗が築いた仙台城は本丸と西の丸からなる堅固な山城であったが、2代目藩主の伊達忠宗が寛永16年(1639)に二の丸を築き、さらに山麓に三の丸を築いて近世風の平山城となる。
 伊達正宗が築城する以前、鎌倉時代末期から室町時代中期にかけてこの地には千代城と呼ばれた城があり、島津氏が陸奥守として居城していたと伝えられている。室町時代末期には国人の国分氏が居城。
 壮大な規模を誇った仙台城であるが、戊辰戦争では戦闘の舞台にならず、築城から幕末、廃藩置県に至るまで一度も戦火に遭っていない。もっとも大手門、脇櫓、巽門が明治以降も残されていたが太平洋戦争の戦火で焼失した。現在は脇櫓が再建されたが、その他の建造物はない。
  

再訪(2017年11月6日)震災で崩れた石垣、櫓が修復されていた。

仙台藩 歴代藩主
家紋  入封時期  禄高   入封時藩主   
62万石 伊達正宗(外様)  

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