日本の城ある記(北海道東北の城・白石城) 

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 白石城  (しろいしじょう)

訪問記
 白石城を訪れたのは8月の末。東北の夏も、関東と同じ猛暑の1日。最初から白石城を訪ねることを目的としていた訳ではなかった。翌日に東松山市で開催される航空自衛隊の航空ショーを見学するために宮城県を訪れ、その途中で寄ったもの。横浜を早朝に出発したが、白石市付近で午後の3時となった。最初の予定は今頃の時間仙台市到着して、仙台市内か青葉城を見学する計画だった。予想より時間がかかったので白石インターで降りて、白石城に向かうことにした。もっとも、計画の段階で、白石城の天守閣が再建されたことを知り、訪ねてみたいと考えていたことも事実だ。だから、予定より遅くなったスケジュールに迷うことなく計画変更した。東北自動車道を白石インターで降り、国道4号線を東京方面へ戻る。10分ほど走って、白石市の市外に入った。市街に入れば当然白石城の案内板があるだろうと思い探したが、それが見つからない。私の車にはナビゲーターがついていない。立派な天守閣を再建したと聞いていたのに何の案内もないのかと、再建話そのものを不審に感じる。やむを得ず、市役所に行けば城の所在地は判るだろうと向かうことにした。市役所の駐車場に車を止め、少し歩いたところでお城への案内表示があった。何のことはない、市役所の駐車場がお城見学の駐車場も兼ねていたのだ。ただし駐車場は他にもあった。そちらの方がお城に近い。市役所の駐車場からお城までは歩いて20分ほどの距離がある。
 入り口でつまずくと、後はあまり期待しなくなる。歩きながら、再建された城といってもコンクリート製で大した城ではないだろうと想像した。ところが、再建された天守閣に入って、その立派さに驚く。すべてが昔の通りの木造建築である。柱は吉野産のヒノキ。梁は鳥取産の松丸太。その他造作に使われているのは主に青森産のヒバだという。なんとも贅沢な建築である。聞けば、市の財政を悪化させるほどの予算をつぎ込んで建築されたという。なるほど、そういう事情で市内にお城への案内板がなかったのだと勝手に納得する。これほどのお城を再現したのであれば、これを観光に利用しない手はないと、よそ者は考えるのだが、部外者には分からない難しい事情があるのだろう。とはいえ観光客にとってそんな事情は如何でも良いこと。新しい木の香りはしても、昔の情景を再現した城郭に触れて、古の武将の夢が甦ってくるような雰囲気を堪能させていただいた。(2007年8月25日) 
 
 白石城の歴史は中世、1088(寛治2)後三年の役で戦功を成した刈田左兵衛が白石に領地を得、築城したのが最初といわれる。 その後白石氏の支配となり、1590(天正18)には蒲生氏によって攻略され、1591(天正19)蒲生氏によって本格的な築城がされた。1600(慶長5)に伊達政宗が城を奪還。以後は仙台領となる。
 仙台領となった白石城は仙台城の支城として1602(慶長7)伊達政宗の重臣、片倉小十郎が城主となり、以後幕末まで260年間、10代にわたって片倉氏が居城とした。1819に火災によって焼失したが、4年後には再建されている。
 1615(元和1) 一国一城が発布されたが、仙台城の支城である白石城は例外的処置として取り壊しを免れている。例外的処置は他に肥後藩の八代城などがある。支城であったこと、また一国一城の制度の下での城の存在から、白石城は実質的な天守を天守閣とは呼ばず、大櫓と称していた。とはいえ、片倉家は1万3千石の禄高を得ていたので、大名と変わることはない。また、城下の経営にも他の大名同様の労力を費やしていた。特に当時の白石は和紙つくりが盛んで、最盛期には300軒ほどが和紙つくりに従事していた。
 
 白石城が最後に歴史に登場したのは1868(明治1)東北諸藩の代表が白石城に集結し、白石列藩会議を開いた。これが奥羽越列藩同盟の結成に繋がることになる。1870(明治2)南部氏が白石藩知事となり、1875(明治7)片倉家により白石城は売却され、解体された。
  

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