日本の城ある記(北海道東北の城・福島城) 

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 福島城  (ふくしまじょう)

訪問記
 事前にガイドブックを見ていたので福島城の遺構は何もないに等しいことは理解していた。したがって時間が無ければ立ち寄らないことにしていたが、予定より早く今日の宿としている福島市に着いた。この季節、午後の5時ごろはまだ十分な明るさがある。福島駅の駅前の宿から城跡まで歩く。福島は初めてではないが、最後に訪れてから30年以上の月日が経っている。以前に訪れたときの様子はまったく記憶にないが、それでも何となく懐かしい気分にもなる。
 何も無いと分かってはいたが、現実にそれを確認するとやはり少し寂しい。二の丸庭園の跡地は僅かばかり公園として整備されているが城の遺構とは思えない。ほんのわずかに残る土塁も、意識しなければ城郭の一部であったとは思わないだろう。唯一、天然の要害として外堀の役目を担っていた阿武隈川だけが城の存在を感じさせてくれる。
 古代、この地は早くから建造物があったことが確認されている。律令時代には国の出先機関が置かれていただろうが、それは蝦夷との戦い、支配地域の拡大によって役割は変遷していったものと思われる。中世には大仏(だいぶつ)城と呼称された城郭が存在し、戦国時代には杉妻城(または杉目城。ともに「すぎのめ」と読む)があった。
 杉妻城を福島城に改名したのは文禄元年(1592)に信夫(しのぶ)郡5万石の領主となった木村吉清。もともと木村吉清は秀吉の奥州征伐(仕置)の功により現在の宮城県北部と岩手県南部の12郡30万石を与えられたが、過酷な施政から一揆がおき、その責任を取らされて減封されたもの。同時に木村吉清は蒲生氏郷の客将となる。慶長3年(1598)蒲生氏郷が宇都宮12万石に減封されて移封すると木村吉清も豊後国へ1万5千石を与えられて転封する。
 蒲生氏郷に代わってこの地を支配したのは上杉景勝。景勝は秀吉から120万石を与えられて会津を本拠とする。福島城は臣下の本庄繁長が入る。秀吉が死去して徳川家康が実権を握り、慶長5年(1600)に家康の上洛要請に景勝が従わなかったために家康による会津征伐が起こる。同時期に関ヶ原の戦が勃発し、これに家康の東軍が勝利したことにより景勝は降伏する。上杉家は存続を許されたものの米沢30万石に減封された。このとき福島城が位置する信夫郡は上杉領であったが寛文4年(1664)第3代藩主綱勝が無嗣子であったため、お家断絶は免れたものの30万石を15万石に減額され、このとき信夫郡は天領となる。
 延宝7年(1679)本多氏が15万石で福島城の城主となり、次いで貞享3年(1686)に堀田氏が10万石で入封する。城の再建に着手するが完成するのは板倉氏が城主となった宝永年間(1704〜1711)の頃とされる。城は本丸の西に二の丸、さらに三の丸を置き、堀には阿武隈川の水を引き入れ、同時に阿武隈川を天然の要害として利用している。現在、城郭跡は内堀が全て埋め立てられ県庁など公共施設が建ち当時の面影は残っていない。(2016年4月24日) 
 

福島藩 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高 入封時藩主   
延宝7年
(1679)
15万石 本多忠国(譜代)大和郡山より入封 天和2年(1682)本多氏は播磨姫路に転封となり幕領となる。 
貞享3年
(1686)
10万石 堀田正仲(譜代)出羽山形より入封 元禄13年(1700)堀田氏転封により幕領となる 
元禄14年
(1702)
3万石 板倉重寛(譜代)信濃坂城より入封  

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