日本の城ある記(北海道東北の城・会津若松城) 

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 会津若松城  (あいづわかまつじょう)

訪問記
 東日本大震災から2カ月が過ぎた。行くべきか止めるべきか迷ったが、結局出かけることにした。以前から予定していた旅行でもない。二,三日前に思いついたことだ。震災以来、何処にも出掛けず閉じこもっていた所為で精神状態が少々おかしくなりかけていた。何処でもよいから出掛けたいと、そんな欲望を抑えられず車を飛ばした。急に思いついたことなら何も震災被害に遭った近くを旅先に選ぶことなどないと、そう考えるのが常識人のとるべき行動だろうが、そうしないのが私が私である所以か。少し前、ほんの少しの額の義捐金だが、それを果たしたことを心の免罪符とした。
 日曜日の朝、太陽が昇り始める少し前に横浜を出て、首都高から東北道に入る。何度も通った道は、いつもと同じ。車の量も、日曜日の早朝としては少々少なめか。それ以外は何の変化もない。それが、宇都宮を過ぎたあたりから様相が違ってきた。道路の補修跡が目立ってきたのだ。最初はそれが地震による被害の補修だとは考えなかった。いや、そうだとしても大した被害ではないとそんな思いだった。しかしまだ完全に補修されていない路肩際を何カ所も見かけるにつけ、改めて地震の大きさに驚く。途中、災害地へ向かう支援車両に何度となく遭遇した。東北自動車道が全線開通したのは、地震から数日後のことだったと思う。 改めて生活安定のためにはインフラが整備されることの重要性を認識する。
 会津若松城を訪ねたのは今回で記憶にあるだけでも4度目だ。もっとも、一番最近に訪れてから10年以上の期間がある。何れの時の写真も残っていない。仕事のついでだけでなく、純粋に旅行で尋ねたこともあるのだが、その当時の写真嫌いが災いして残っていない。だから、再訪して写真に収めたいと常日頃から考えていたことが、今日実行できた。幸い、会津若松の町に震災を思い起こさせるものはない。会津若松城も変りなかった。いやいやそうではない。大いに変っている。私の頭の中にある会津若松城の印象は白黒の古めかしい写真のイメージだったが、目の前にある城の姿は明るい色をしている。それに周りも随分と整備されている。瓦の色も昔は黒色ではなかったかと思う。今は、明るい薄い赤色である。後で案内書を読むとこれが本来の瓦の色のようだ。そうだとすると、幕末の戊辰戦争の時の白虎隊の悲劇がなんだか薄らいでゆく。南欧の明るい海辺の別荘地を思い描かすようなパステルカラーは悲劇の城に似つかわしくないと、そんな勝手な思いをする。
 そういえば、昔ここを訪ねたとき、まだ私の若かりし時だが、泊まる宿の予約もせず行き当たりばったりの旅をして、宿をどこにするかでカミさんと揉めたことがあった。今日は、ちゃんと宿を予約した。だから落ち着いた気分で城内を散策できる。(2011年5月15日)
  
 南北朝時代・南朝元中元年(1384)蘆名直盛がこの地に館を建てたのが会津若松城の始まりとされる。代々この地を蘆名氏が支配し、館は堅固な備えを持つ黒川城となり広大な版図を築いた。
 天正17年(1589)に伊達正宗が豊臣秀吉の反対を押し切り蘆名氏を攻めて会津を奪うも、天正18年(1589)に秀吉に屈してせっかく手に入れた会津を返上することになる。文禄元年(1592)に蒲生氏郷が伊勢より移封し、文禄2年(1594)に城郭の大整備を行い、望楼型の7重の天守を竣工した。同時に地名を若松とし、城の名称を黒川城から鶴ヶ城に改名する。
 慶長3年(1598)蒲生氏郷の子、秀行の時に家中騒動があり宇都宮に転封される。代わって上杉景勝が120万石で入封した。その景勝も関ヶ原の戦で西軍に与し、徳川家康によって米沢に30万石で転封させられることになる。上杉の転封後に再び蒲生秀行が城主となるが、慶長16年(1611)の地震によって天守が大きく傾く。寛永4年(1627)秀行には嫡男がなく、秀行の弟が後継して松山に移封。代わって松山から加藤嘉明が会津に入封。嘉明の子、明成は地震によって傾いた天守を現在見られるような層塔型のの姿に組直す。また西、北に出丸を造営し、外堀に水を引くなどして城郭を整備する。寛永20年(1643)3代将軍家光の庶弟であった保科正之が出羽山形から23万石で入封。以後、保科から(会津)松平性に改名して幕末まで続く。  
  
 会津若松城は会津盆地の南東端にあり、低い丘陵を利用した平山城。丘陵の先端に本丸を配置し、東側に二の丸、伏兵郭、その外側に三の丸を配置する。本丸の北と西にはそれぞれ出丸が置かれ、土橋によって結ばれている。これらの曲輪は水掘りに囲まれ、本丸、北出丸、西出丸のほとんどは石垣で築かれている。
 戊辰戦争の際、板垣退助の軍に薩摩の援軍を加えた新政府軍の猛攻に一か月の間耐え抜いたが、開城した。



 会津藩 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高  入封時藩主   
慶長6
1601 
60万石  蒲生秀行(外様)下野宇都宮より入封   
寛永4
1627 
40万石  加藤嘉明(外様)伊予松山より入封   
寛永20
1643 
23万石  保科(松平)正之(家門)出羽山形より入封   

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