訪問記
米沢から会津へ向かう途中、裏磐梯を抜けて猪苗代湖に出る。猪苗代城は湖畔から3kほど北にある。このところの城巡りや五重塔、三重塔を訪ね歩くのには電車やバスを利用することが多いが、今回はレンタカーを利用した。自分で車を運転すれば時間を有効に使うことができるが、その分旅をしているといった気分が薄れる。場所から場所へと、単に移動しているだけで途中経過が抜け落ちているような気分になる。もっとも、これは年の所為かもしれない。運動能力や体力は、若いつもりであっても衰えているに違いない。とっさの判断も弱っているのだろう。運転に神経を使い過ぎて景色を眺める余裕がない。若かりし頃は運転そのものが爽快な気分にしてくれたが、今は山道のカーブでは必要以上にブレーキを踏む。
猪苗代城は事前に読んだガイドブックでは石垣、堀が良好に残されていると書かれていた。機会があればぜひ訪ねてみたいとかねがね思っていた城跡の一つだ。今回は城跡巡りが主目的ではなく東北地方に在る三重塔を訪ねるのが目的の旅だが、少し回り道をして猪苗代湖を目指した。
中世、この地は猪苗代氏が地頭として支配していた。猪苗代氏の祖先は平安末期から鎌倉時代初めの武将で相模国の豪族三浦義明で、その子義連(よしつら)は治承4年(1180)の源頼朝の挙兵に参加し御家人となる。義連は文治5年(1189)の鎌倉政権と奥州藤原氏との奥州合戦に参戦し、その功により会津四郡の領主となった。その子孫のうちこの地を支配していたものが猪苗代氏を名乗り、会津盆地を支配していた一族が蘆名氏を名乗る。本家が蘆名氏、分家が猪苗代氏の関係であったようだ。
戦国時代、猪苗代氏は伊達政宗を後ろ盾にするが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置きによって伊達政宗が会津から撤退すると、猪苗代氏の400年に及ぶ支配も終焉する。代わって蒲生氏郷が会津に入り、猪苗代城はその支城となる。徳川政権になり一国一城令の例外として城の存続が認められた。寛永4年(1627)加藤嘉明が会津藩主となり、寛永20年(1643)には松平(保科)正之が会津藩主となるが、いずれも会津若松城の支城として猪苗代城を存続させて城代を置いた。慶応4年(1868)の戊辰戦争の折、官軍の侵攻に際して当時の城代は城を焼き払って会津若松に退却している。
猪苗代城は磐梯山から猪苗代湖に続く丘陵に立地する平山城。猪苗代氏時代から続く城郭の主要部分を本丸とし、東に二の丸、三の丸を配している。戦国時代の面影を残した城郭である。(2016年5月25日) |