日本の城ある記(北海道東北の城・白河小峰城) 

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 白河小峰城  (しらかわこみねじょう)

訪問記
 二本松城を見ての帰り、今日の宿は塩原温泉と決めてある。その途中、時間があれば立ち寄ることにしていた白河小峰城に着く。曇り空の4時過ぎであるので夕暮れ時のような雰囲気の中にお城があった。城址公園に入り、小高い丘の上に立つ三重櫓を見て、その淋しげな雰囲気が一層強調された。なんと石垣が崩れていたのだ。もちろんそこに近づくことはできない。堀越しに眺めることしかできない。
 なんでも築城以来一度も崩れたことがない石垣だそうである。千年に一度だという今回の地震の大きさが想像できる。ここに来るまでは、海から遠く離れた内陸部までこれほどまでの被害が及んでいることなど想像もしていなかった。再建された三重櫓は伝統的技法で立てられた木造建築と聞いていたので内部を見るのを楽しみにしていたが、それは叶わぬ事となった。幸い、外から見ただけだが、櫓そのものは崩れていない。何時か、石垣が修復されたら、もう一度訪ねてみることにした。(2011年5月15日)
   
 白河は上総と陸奥の国境にあり、古代より東北地方への関門として白河関が設けられる等、交通面でも政治的にも重要な位置にあった。白河から先を「河北」と呼び、河北は東北地方を意味した。
 白河城は南北朝時代の南朝興国元年(1340)に白川結城氏の庶流であった小峰氏によって築かれたのが始めと言われている。やがて小峰義親が惣領家を名乗り、以後は白川結城氏の居城となる。

 天正18年(1590)秀吉の奥州仕置きにより結城氏が改易されると会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、そして再び蒲生氏の支城となった。寛永4年(1627)になり丹羽長重が10万石で入封し、幕府の命を受けて4年の歳月をかけ本格的な城郭を築城した。寛永20年(1643)に丹羽氏が二本松へ転封になった後は譜代大名の赴任地となる。
 城は阿武隈川の南岸の小峰が岡と呼ばれる丘陵地頂上部に本丸を配置。南に二の丸、その南東に三の丸と侍屋敷が包み込むように配置されている。北側は阿武隈川の流れを変えて堀とした。本丸は急こう配の総石垣造りで、盛岡城、会津城とともに東北ではめづらしい石垣造りの城として、東北の三大名城と称されている。
 慶応2年(1866)安部正外が棚倉へ転封となり、白河は幕領となる。二本松藩の預かりとなって戊辰戦争では官軍の攻撃を受け激しい戦闘の舞台になる。城のシンブル的存在であった三重櫓は落城とともに焼失した。
 平成三年(1991)に伝統工法による木造建築として三重櫓が再建され、平成六年(1994)には前御門が完成した。

再訪 震災から5年。石垣の修復工事はまだ続いていましたが前回訪問時(震災の2か月後)は立ち入ることができなかった三階櫓の修復は終了し4月20日から一般開放された。福島に向かう途中、立ち寄ってみました。(2016年5月24日)

 白河藩 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高  入封時藩主   
天正18
1590
  秀吉の奥州平定後、蒲生氏の会津領となり、その支城となる。   
寛永4
1627
10万石 丹羽長重(外様)陸奥棚倉より入封   
寛永20
1643
14万石 榊原忠次(譜代)上野館林より入封   
慶安2
1649
12万石 本田忠義(譜代)越後村上より入封   
天和元
1681
15万石 松平(奥平)忠弘(譜代)下野宇都宮より入封   
元禄5
1692
15万石 松平直矩(家門)出羽山形より入封   
寛保元
1741
11万石 松平(久松)定賢(譜代)越後高田より入封   
文政6
1823
10万石 阿部正権(譜代)武蔵忍より入封
慶応2年(1866)阿部正外のとき棚倉へ転封となり、廃藩となって幕領となり二本松藩が預かる。  

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