日本の城ある記(北海道東北の城・平城) 

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 平城  (たいらじょう)

訪問記
 東日本大震災が発生する5年ほど前、仕事で常磐線を利用して相馬市へ。さらに仙台まで行ったことがある。震災から5年。いまだ常磐線は全面開通していないがいわき市までは特急を含めて運行されている。1時間に一本しかない特急は満席状態。震災前に乗ったときはこれほどでもなかったような気がする。復興需要なのか、元々経済活動が活発であったのか、私にはわからない。いわき駅で降りると駅舎の立派さに驚く。福島第二原発から直線距離で約25kにあるこの駅は常磐線の他に磐越東線の起点にもなっている。立派な駅舎が震災後に整備されたものなのかどうか調べてはいないが、見た目の新しさから2、3年前に完成したものだと思う。復興は、確実に進展していると思う。もっとも、いわき市を訪れたのは震災の復興状況をこの目で確かめることではない。駅舎の北側に小高い丘がある。江戸時代、この丘を中心として平(たいら)城があった。その遺構を訪ねるのが目的である。
 戦国時代、この地は常陸平氏の流れをくむ戦国大名岩城氏が支配しており、その拠点が(磐城)大館城であった。大館城は現在の平城址の西側の飯野平にあり、”飯野平城”とも呼ばれた。岩城氏は関ヶ原の戦で所領を没収され、慶長7年(1602)に徳川譜代大名の鳥居忠政が10万石で入封する。この時「飯野平」から「磐城平」へ呼称変更をする。
 鳥居忠政は家康から仙台伊達政宗の押さえの役割を担った城郭の築城を命じられ、慶長8年(1603)に現在地(当時は物見ヶ岡と呼ばれた丘陵地)に築城を開始。12年の歳月を要して完成させた。
 城は本丸を中心として、西側に大手郭、東に二の丸、北に三の丸を配する。本丸には三階櫓、八ツ棟櫓、隅図櫓、塗師櫓、櫛形門櫓をあげ、三階櫓は外観は二層であったが天守代用とした。戊辰戦争の折、平藩は奥羽越列藩同盟に与して新政府軍と戦い、これに敗れて城を自焼する。
 いわき駅から道路を挟んですぐの所に本丸への道の案内板がある。急坂を登り、民家の間の路地を行くと本丸跡の標識と絵図面がある。しかし塀に囲まれ、入口の扉は施錠されている。塀の隙間から中をのぞくと結構広い平地がある。どうしたものかと思案していると、ちょうど宅配便の車が来て、運転手は勝手知った様子で扉を開けて車を中に入れようとする。私も、ちょっとは躊躇したが車に続いて中に入る。たまたまであったのか管理人(?)風の人がいたので囲いの中に入っていいかと尋ねる。聞けば本丸跡地は私有地だという。イベントがある日(次の土日は桜まつりが本丸跡で行われることになっている)以外は立ち入り禁止という。ただし、宅配便の車が出ていくまでの10分間くらいなら立ち入ってもよいとのことで、大急ぎで本丸跡地を駆け回る。
 本丸跡地には残念ながら遺構らしきものは見当たらない。南側の崖が元々の土塁であったのか、あるいは石垣が隠れているのか、木立が生い茂って確認できない。広い平坦な敷地には御殿が建てられていたのだろうが、それを想像するすべもない。とはいえ、この空間は貴重だ。櫓の再建の話もあるらしいが、それが叶わなくとも街を一望できる丘の存在は都市機能の一つでもあると思う。本丸を出て、丹後沢公園として整備されている内堀の跡を通る。12年を要した築城は難工事であったという。この堰を築くために人柱の言い伝えがあり、人柱となった人の名に因んで丹後沢と呼ばれるようになったと案内板に記されている。訪れた日、静かな水面には鴨のつがいがまどろんでいた。(2016年4月6日)

平藩 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高  入封時藩主   
慶長7年
(1602)
10万石 鳥居忠政(譜代)下総矢作より入封
元和8年
(1622)
7万石 内藤政長(譜代)上総佐貫より入封
延享4年
(1747)
6万石 井上正経(譜代)常陸笠間より入封
宝暦6年
(1756)
5万石 安藤信成(譜代)美濃加納より入封

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