日本の城ある記(北海道東北の城・棚倉城) 

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 棚倉城  (たなくらじょう)

訪問記
 JR水郡線の磐城棚倉駅で下車。駅前の通りを約10分ほど南に歩き、幹線道路を離れて横道に入ると棚倉城跡の土塁と水堀が視界に飛び込んできた。紅葉に彩られた城跡の景色は予想もしていない美しさだった。
 棚倉(たなぐら)城を見学したあと、磐城棚倉駅からの各駅停車の電車に乗りローカル線の旅を楽しみ、常陸大子町で下車して紅葉で有名な永源寺、袋田の滝を訪れる予定でいる。棚倉城は城跡見物が目的で紅葉見物など考えてはいなかったが、ここが紅葉の名所でもあることを訪れて初めて知った。ちょっと得した気分と、紅葉見物が目的である次の訪問先への期待度が少し下がるようでちょっと損した気分にもなる。
 現在の棚倉城が築城される以前は棚倉城から北に2kmほど離れた標高345m(比高65m)の丘陵地に赤館城(あかだてじょう)と呼ばれる城があった。築いたのは赤館伊賀次郎という武将で、建武年間(1334〜1338年)には城は存在していたらしい。
 鎌倉時代の初め棚倉一帯は伊達氏の飛び地であったが、南北朝時代は白河結城氏の勢力圏となる。戦国時代になると棚倉以南が佐竹氏の勢力範囲となり、赤館城は最前線の城となって、この辺りで戦闘が繰り返された。天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置で白河結城氏は改易となり、棚倉一帯は佐竹氏が領有するところとなる。しかし慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に与した佐竹氏が秋田へ移封されると棚倉は一時的に天領となる。
 慶長9年(1604)になり、もと筑後国の柳川城主であった立花宗茂が棚倉に所領を得て赤館城の城主となる。その立花宗茂が元和6年(1620)に柳川城主に復帰すると、元和8年(1622)丹羽長重が5万石で棚倉に入封され、寛永2年(1625)に棚倉城の築城を始める。しかし丹羽長重は城の完成を待たずに寛永4年(1627)に転封となり、代わりに内藤信照が入封し、城を完成させるとともに城下町を整備する。城の完成に伴い棚倉城を居城とし、赤館城は廃城とされた。
 棚倉城は土塁で囲まれた方形の本丸を二の丸が囲い、北西に三の丸を配置した輪郭式の縄張り。本丸には4基の二重櫓があげられ、中央に御殿が建てられていた。天守は建造されなかったようだ。最期の藩主・阿部正外のとき、戊辰戦争の際に官軍の攻撃を受けて本丸内の建造物を自焼して敗退したため、現在は何も残っていない。しかし本丸の土塁と堀が良好な状態で残っており、当時の栄華の面影を伝えている。(2017年11月7日)
 

棚倉藩 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高  入封時藩主   
 慶長9年
(1604)
1万石 立花宗茂(外様) 元柳川城主。関ヶ原で西軍方につくが、本多忠勝の推挙で御書院番頭、秀忠の御伽衆となり、その後棚倉に所領を得て大名となる。  最終的に棚倉の地で3万5千石に加増され、元和6年(1620)に10万9千石を得て、筑後柳川の城主に復帰する。
元和8年
(1622)
5万石 丹羽長重(外様)常陸古渡より入封 入封時は戦国時代からの城である「赤館」を居城とするが、寛永2年(1625)に棚倉城の築城に着手するが未完のまま転封となる。
寛永4年
(1627)
5万石 内藤信照(譜代)近江長浜より入封 築城を引き継ぎ、寛永4年(1627)に完成させる。
宝永2年
(1705)
5万石 太田資晴(譜代)駿河田中より入封
享保13年
(1728)
5万4千石 松平(越智)武元(家門)上野舘林より入封
延享3年
(1746)
6万石 小笠原長恭(譜代)遠江掛川より入封
文化14年
(1827)
6万石 井上正甫(譜代)遠江浜松より入封
天保7年
(1836)
7万3千石 松平(松井)康爵(譜代)石見浜田より入封
慶応2年
(1866)
10万石 阿部正外(譜代)陸奥白河より入封 明治1年(1868)戊辰戦争で官軍に攻撃され、城を自焼する。

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