日本の城ある記(北海道東北の城・九戸城) 

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 九戸城 (くのへじょう) 


ある
 自宅(横浜)の最寄り駅から始発電車に乗り二戸駅に着いたのは午前9時ちょっと過ぎ。このところの旅行は青春切符を利用したりして各駅停車の列車を利用することが多いのだが、さすがに盛岡を通り越して二戸までは遠い。時間は有り余るほどあるので、時間をお金に換算する必要はないが、宿泊費を考慮すれば新幹線利用も無駄ではない。でもちょっと味気ない。旅をしているという情緒がない。それに私にとって新幹線に乗車することはサラリーマン時代を思い起こす。どちらかと言えば苦い思いの方が多かった昔を忘れようとしても、追いかけられている気分にもなる。もっとも、新幹線ではなく飛行機の旅となると、嫌な思いに追いかけられることはない。サラリーマン時代には仕事で飛行機を利用したことが少なかったせいか。北海道や九州へは空の旅が楽しみの一つでもある。

 二戸駅から九戸城まで徒歩で向かう。背中に背負った旅行かばんはコインロッカーに預けて身軽になったが、真夏の太陽が照り付ける。汗かきの私には夏の旅行は苦行僧の気分だ。九戸城へは、正確に時間を計っていなかったが、ゆっくりと歩いたので30分くらいは掛ったと思う。いや、その都度時計を確認していたが、メモを取っていないので忘れてしまった。ちょっと前ならもう少し記憶力があったが、呆けてしまったようだ。
 九戸郡九戸村という地名はこの近くにある。それが、九戸城は二戸市にあるのは何故なのか疑問であったが、九戸城は九戸を出身地とする南部一族の九戸氏が築き居城とした城であったがためのようだ。因みに、二戸や九戸の地名は延久2年(1070)の蝦夷地攻略の後に建郡された糠部郡(ぬかのぶぐん)に配された地名からで、現在も四戸を除いて一戸から九戸までが地名として存続している。
 ガイドハウス(かつての三の丸の一部)の前のパンフレットボックスから城内の案内図を受け取り、これを頼りに城巡りを始める。ガイドハウスから空堀にかけられた橋を渡り、本丸・二の丸の土塁下に出る。右手に進み二の丸大手を目指す。途中埋め立てられてはいるが深田堀跡と二の丸の切岸を見て二の丸大手に着く。土塁や切岸は樹木に覆われて全容が把握できないが、城郭の規模の壮大さは実感できる。二の丸大手への登り口横の堀は水堀となっている。深田堀もかつては水堀であったのだろうか。二の丸大手口の左手にブルーシートが被せられている。発掘調査が行われているようだ。それにしても本丸の南面と東面に連なる二の丸の広さには圧倒される。今は芝が張られて庭園のような趣があるが、二の丸は戦国時代最期となる戦の修羅場であったという。天正19年(1591)秀吉に叛旗を翻した九戸政実(くのへまさざね)は5千の兵で九戸城に立て籠もり秀吉の派遣した軍勢6万と対峙する。結局、政実は降伏したが、政実および城内に立て籠もっていた者は二の丸に押し込められて全て惨殺されたという。近年の二の丸修理の際、首を刎ねられた白骨死体が出土したようだ。緑の芝生の下に、今も亡骸が埋まっているのかと思うと不気味だ。
 二の丸の南側と東側には本丸に続く虎口が設けられている。南側が本丸大手口で、東側が追手口であったようだ。本丸大手には二の丸との境に空堀が掘られ、石垣が組まれている。以前は九戸政実が築いたとされたこともあったようだが、発掘調査の結果は九戸政実が敗退した後に豊臣方の蒲生氏郷が九戸城を大改修するが、その時に築かれたとされる。それでも北東北地方の城郭では最も古い石垣のようだ。本丸は一辺が約100mのほぼ四角形。石垣、土塁で周囲を固めている。西側はほぼ直角に切られた断崖で三の丸と接している。
 本丸追手口から空堀にかけられた橋を渡り、二の丸の搦手とされる虎口に向かう。この虎口から堀底道を通って石沢館、若狭館へ向う。石沢館、若狭館も九戸城の曲輪の一つであるが、本丸、二の丸とは趣が異なる。本丸、二の丸は蒲生氏郷によって大改修された近代的な城郭だが、石沢館、若狭館は改修されずに九戸城築城当時のまま残っているようだ。樹木や下草に覆われていたので全容は分からないが、自然地形を残した大らかで雄大な中世東北地方の城郭の特徴(素人の判断であるが)が見られる。築城時の風景は違ったものであっただろうが、今は戦闘の場というより生活の場であるような雰囲気がある。堀底には小川のせせらぎもあった。 
 汗を拭きながら、休息を重ねて2時間弱ほど滞在しただろうか。今日はこの後に花巻城に立ち寄る予定。名残惜しみつつ九戸城を後にする。(2019年8月24日)
 
二の丸大手(史跡案内板の説明文を転載)
 大手は城郭において政治的、軍事的にも重要な道筋で、堀を挟んだ武家屋敷とされる在府小路(ざいふこうじ)遺跡と土橋でつながっていた。
 二の丸大手は、福岡城の普請時に改修したと推定される。現存するいくつかの古絵図には、方形の空間をもった枡形の虎口が描かれているが、現状では確認することができない。
 平成7年に実施された発掘調査では、虎口の一部と推定される土塁の痕跡が確認されているが、門や石垣などの施設は明らかになっていない。平成27年に実施した地中電気探査では、東西方向に幅約6メートルの構造物が存在することが確認されており、二の丸大手の一部である可能性がある。 
本丸南虎口(史跡案内板の説明文を転載)
 本丸出入口である虎口の一つで名称は不明。土橋で本丸と二の丸を繋ぎ、櫓を配し、櫓門を構えていることから、城郭の中でも重要な虎口であったことが推定される。
 一辺が約15メートル四方の枡形を呈し、本丸の出入口には楼門の礎石が残っている。また、二の丸に接する南側には門などの施設はないが、本丸南側の堀跡は、侵入者を阻むために土橋状の喰違いになっている。
 平成2年の発掘調査では、下層から古い堀跡が確認されている。また、平成5年に実施された地中電気探査では、この堀跡の延長部分が確認され、現在の虎口と同じように途切れて土橋状になっていることが明らかになっている。このことから九戸氏の時代にも同じ位置に虎口があったと推定される。 
本丸石垣(史跡案内板の説明文を転載)
 天正19年(1591)蒲生氏郷(がもううじさと)によって普請されたとされる石垣。地元では九戸政実(くのへまさざね)が築いた石垣として信じられてきたが、発掘調査の結果、九戸城落城後に築かれた福岡城の石垣であることが判明した。北東北では最も古く、構築年代が判明している石垣として学術的に重要な遺構。自然石を積み上げた野面積(のづらづみ)と呼ばれる手法で構築され、会津若松城天守台の石垣に類似している。
 残っている石垣は隅石が失われ、V字に崩れていることから、寛永13年(1636)の廃城時に破却された可能性がある。また、南堀跡は、南面の石垣と北面の石垣の積み方が異なる。北面石垣は、横目地が通らないことから、在地系の職人によって築かれた可能性が指摘されている。 
本丸跡(史跡案内板の説明文を転載)
 九戸城の中心に位置する曲輪で、城内で最も高位に位置している。一辺が約100mの方形を呈し、東側と南側の二箇所に虎口を開き、南東、南西、北東の3箇所に櫓を配している。東面、南面は石垣を持つ堀と土塁で二の丸と画され、北面、西面は切岸状の断崖で三の丸と画されている。
 本丸平場は、東西方向に石段で区切られ、段差が造成されている。平場奥の北側、西側は一段高くなり、出入り口と推定される石段が確認されている。また、7棟の建物跡も確認されていて、その内一棟は礎石建物跡であったことが分かっている。
 発掘調査の結果、本丸の平場の造成層とその下層から異なった遺物が出土しており、平場のほぼ全体が九戸城落城後に造成されたものと考えられる。 
   
二の丸搦手(史跡案内板の説明文を転載)
 搦手(からめて)は正面である大手に対し、裏口を意味します。二の丸の出入口である虎口の一つで、大手と同様に城郭を理解するうえで重要な道筋です。
 二の丸搦手は二の丸大手と同じく、南部信直の居城であった福岡城の普請時に改修したと推定される。現状では細い通路となっているが、古絵図の中には、二の丸大手と同じく方形の空間をもった枡形の虎口が描かれているものもある。
 二の丸搦手から堀底道を通り、若狭館(わかさだて)、石沢館(いしざわだて)、三の丸の各曲輪へ行くことができる。また、九戸氏の本拠地であった九戸方面への道筋にも通じていることから、九戸氏の時代から重要な虎口であった可能性がある。
 平成27年に実施した地中電気探査では虎口に関連がある階段状の遺構の存在が確認されている。 
石沢館(いしざわだて) 外館(とだて) (史跡案内板の説明文を転載)
 若狭館とともに曲線的な造りの曲輪。本丸、二の丸、松の丸が直線的で枡形や石垣を伴うなど近世的な特色が強く見られるのに対して、中世の城郭のたたずまいをよく残しており、青森県根城跡や浪岡城跡などを構成する曲輪によく似ている。 
若狭館(史跡案内板の説明文を転載)
 石沢館(外館)とともに九戸城の曲輪の中では古い時代のものと考えられます。本丸や二の丸、松の丸が直線的で近世の要素が強く感じられるのに対して、曲線的な造りであり、青森県根城跡や浪岡城跡など東北地方北半の代表的な中世城郭を構成する曲輪によく似ている。
 

 九戸城の築城時期は諸説あるが明応年間(1492〜1501)とするのが一般的なようだ。 築城は南部氏の一族の九戸氏による。
 南部家の最盛期を築いた三戸南部氏の南部晴政が天正10年(1582)に亡くなると13歳の実子の晴継が家督を相続するも同年に急死する。暗殺されたとする説が有力である。この後継を巡って南部一族の間で紛争が起こる。南部一族の宗家は三戸南部氏であるが九戸南部氏、八戸(根城)南部氏、津軽の大浦氏は半独立状態の勢力を持っていた。宗家晴継の後継は、かつて南部晴政の養嗣子であった南部信直(晴政に実子・晴継が誕生したので養嗣子を廃される)が継ぐがこれに異存のあった九戸政実と対立する。九戸政実の弟・実親は南部晴政の姉婿という姻戚関係にあり、宗家と拮抗する勢力を持っていた。
 天正18年(1590)秀吉の小田原征伐に南部信直、大浦(津軽)為信は参陣し、小田原開城後に続く奥州仕置にも従軍。この時に南部信直と大浦為信は秀吉より所領安堵の朱印状を得る。南部信直が宗家を継承したことが根底にあり、更に秀吉の奥州仕置に不満であった九戸政実は天正19年(1591)挙兵する。九戸政実には一族間の争いとの認識であったかもしれないが、信直が秀吉から所領安堵を取り付けていたことから秀吉政権に対する反逆と見做される。秀吉は蒲生氏郷ら6万の討伐軍をおくり九戸城に立て籠もる九戸政実を打ち破る(凋落による落城といわれる)。
 落城後、九戸城および城下は秀吉の命を受けた蒲生氏郷によって大改修され、南部信直に引き継がれる。信直は三戸から居城を移し、九戸城を福岡城と改名する。
 信直は蒲生氏郷や浅井長政の助言をうけ現盛岡の地に新たに城を築く。築城は慶長3年(1598)に着手されるが、工事が難航し、慶長年間(〜1615)には総石垣の城としてほぼ完成するが、完全に完成したのは寛永10年(1633)。南部氏の盛岡城への移転に伴い、九戸城は寛永13年(1636)に廃城となった。 

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