日本の城ある記(北海道東北の城・花巻城) 

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 花巻城 (はなまきじょう) 


日本の城ある
 花巻城址はJR花巻駅から徒歩で15分ほどにある鳥谷ケ崎(とやがさき)公園内にある。もともと花巻城も当初は鳥谷ケ崎城と呼ばれていたが、南部氏が支配するに及んで花巻城に改称されたようだ。
 この地に最初に城郭が築かれたのは前九年の役(1051〜1062)の時。陸奥六郡で最大勢力を誇っていた安倍頼時が「柵」を築いたと伝えられている。
 室町時代・戦国時代は国人領主、稗貫(ひえぬき)氏が現花巻城の地に城郭を築き居城としていた。天正18年(1590)秀吉の小田原征伐、これに続く奥州仕置の際、当時の稗貫氏当主・稗貫広忠は参陣しなかったことを咎められて所領を没収される。秀吉はこの地を南部信直に与え、天正19年に南部信直は家臣の北信愛(きた・のぶちか)北秀愛(きた・ひでちか)の親子を城代として入れる。この時に鳥谷ケ崎城を花巻城の改名し城郭、城下町が整備される。
 江戸時代となり、慶長18年(1613)盛岡藩主・南部利直(信直の長男)の次男・政直が2万石を与えられ城主となる。政直は本丸の南側に二の丸、三の丸を配し、本丸には二層二階の櫓を建て、近代的な城郭に改修する。
 寛永元年(1624)利直が急死。以後は南部藩の家臣が城代を勤めて和賀、稗貫2郡を統治する政治の中心として明治維新まで続く。
 現在は本丸がほぼ昔の状態で残り、周辺は公園として整備されて本丸西御門が復元された。
 復元された本丸西御門脇の案内板に、かつての花巻城の全体が描かれた絵図面がある。堅固で壮大な城郭であるが、それでも一国一城令のもとで南部藩の支城として破却されず存続が許されていたようだ。
 本丸北側の土塁(切岸)に土塁下に降りられるスロープが造られている。おそらく公園として整備された際に造られたものだろうが、それを下って土塁下に出る。ここから本丸を眺めると、土手は容易に攻め上れない高さである。また土塁下には城の東側、500mほど先を流れる北上川に通じる水路がある。現在はそれほどの幅ではないが、かつては沼地であったか、今より幅の広い水路であったと思われる。
 本丸の南側に廻って、かつての城の痕跡を探そうと思ったが、予定していた列車の時刻が迫っている。この後、別行動のカミさんと仙台で待ち合わせることになっている。後ろ髪を引かれる思いで花巻城を後にする。(2019年8月24日)
 

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