日本の城ある記(北海道東北の城・相馬中村城) 

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 相馬中村城 (そうま なかむらじょう) 


 @大手一の門

 A大手二の門跡

 B中の門跡

 C不開門跡

 D内蓮池門跡

 E外蓮池門跡

 F矢来門跡

 G一の門跡

 H二の門跡

 I後門(搦手門)跡

 J土門跡

 K西山口門跡

 L籾蔵門跡

 M小野口門跡

 N西門跡

 O天守跡
ある
 
江戸時代、相馬氏が居城とした中村城はJR常磐線相馬駅から徒歩で約20分の距離にある。15年ほど前、仕事の都合で上野駅から常磐線の特急列車に乗って相馬を訪れたことがあるが、今は上野から相馬まで直通で行くことができない。2011年の東日本大震災の影響で、途中の一部区間が不通のままだ。今回仙台を訪れた機会を利用して相馬まで足を延ばした。仙台からなら常磐線で相馬まで行ける。各駅停車で約1時間の行程である。
 相馬駅前の西方向に伸びる道路を300mほど歩き、南方向に折れて進むと外堀に出る。外堀に沿って歩くと北三の丸へ通じる土橋がある。ただし現在は車が通行できる広さの道路になっている。
 上記の城絵図はAの大手二の門跡に掲示されていたものを写したもので、私は@の大手一の門からでなくE外蓮池門跡D内蓮池門跡を通って相馬城に入城する。内蓮池門跡から土手を登ると東二の丸の虎口(?)に出る。東二の丸は中館(なかだて)ともいわれ、かつては藩主や重臣の邸宅があった曲輪。現在は野球グランドになっている。その脇の土手に石段があり、それを登ると丸土張(まるどばり)跡の平場に出る。絵図では横矢を設けた枡形虎口が連続しているように描かれているが、その遺構は現状でははっきりとと確認できない。丸土張は「馬出し」のことと案内板に書かれている。
 丸土張から内堀と本丸の北側から西側に掘られた空堀の境目に架けられた橋(城絵図ではこの橋を「赤橋」と記載している)を渡るとG一の門跡H二の門跡が続き本丸跡に出る。本丸には10段ほどの石の階段を上がるのだが、これが一の門跡、二の門跡のどちらなのかよく分からなかった。本丸には御殿が建てられ、西南隅には三重の天守が築かれていたと案内板には書いてあるが、その痕跡を示すものは目視しただけでは分からない。三重の天守は寛文10年(1670)に落雷により焼失し、以後再建されることはなかった。現在本丸は相馬氏の祖、相馬師常を祭神とする神社となっている。
 本丸から「赤橋」と城絵図に記載されたスロープ状の橋を渡って西二の丸に出る。西二の丸は中世城郭に一部で「西舘(にしだて)とよばれ、江戸時代後期は米蔵や火薬庫としてしようされていたようだ。城絵図には西二の丸の北側に西三の丸や蓮池につながる虎口が描かれているが、現状は樹木に覆われ下草も密集しているのでそこへ行くことは出来なかった。
 西二の丸から坂を下って南二の丸に出る。城絵図には本丸と南二の丸の間には幅広の内堀が描かれているが、現状は水路程度で、ほとんどは埋め立てられている。ここから本丸の切り立った土手(切岸)が良く眺められる。切岸の中段に鉢巻状の石垣が構築されているらしいが、下草が覆いかぶさっている所為かよくわからない。南二の丸から大手一の門までB中の門跡A大手二の門跡@大手一の門と虎口が連続している。それぞれの虎口は昔の状態をよく残している。大手一の門は慶安2年(1649)に建てられたものが今に残っているようだ。時間の制約もあって少し急ぎ足で巡った。炎天下、汗もたっぷりとかいた。熱射病にならないように冷たい飲み物を探す。(2019年8月26日)
 この地に最初に城郭を築いたのは平安時代初期の延暦年間(782〜806)に蝦夷討伐のため遠征した坂上田村麻呂によるとされる。南北朝時代の延元2年(1337)この地を支配下に置いた中村氏が「中村館」を築き、戦国時代初期まで中村氏により支配が続く。戦国時代後期には中村氏に代わって相馬氏がこの地に勢力を伸ばし、永禄6年(1563)当主・相馬盛胤(そうま もりたね)の弟相馬隆胤(たかたね)が中村城に入城する。
 相馬氏は平将門の子孫と伝えられ、下総で勢力を持っていた相馬氏初代師常(もろつね)が文治5年(1189)の奥州合戦(鎌倉政権と奥州藤原氏の合戦)に鎌倉方として参戦し、その軍功により陸奥行方郡を与えられる。その後、建武3年(1336)下総相馬家から分かれた相馬重胤(しげたね)が相馬中村城の南にある現在の南相馬市小高の地に城を築き居城とする。戦国時代後期になり相馬氏と伊達氏の争いが起こると、これに対応して中村城を小高城の支城とした。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦に相馬氏は参戦せず中立の立場であり、一度は所領を没収されるが、本多正信らの仲介により所領を安堵される。慶長16年(1611)に居城を小高から中村城に移し、以後明治維新まで中村藩6万石の拠点となる。
 中世の中村城は東西に曲輪を配した梯郭式の城郭であったが、慶長16年(1611)の居城移転に伴い近代城郭へ改修される。標高20mほどの丘陵最高所に本丸を置き、北、西、東にそれぞれ二の丸、三の丸を配し、南に南二の丸を配する輪郭式の城郭となる。それぞれの曲輪は堀で仕切られ、虎口も多数設けられてコンパクトな城塞ながら堅固な守りを備えている。
 

相馬藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
慶長16年
(1611)
6万石 相馬利胤(外様)陸奥小高より移転 相馬中村に新城を築き小高より移転
以後明治維新まで相馬氏の居城となる

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