日本の城ある記(北海道東北の城・秋田城) 

 北海道・東北の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 秋田城  (あきたじょう)

訪問記
 秋田城の前身である「出羽柵(いではのき)」は当初は山形県の庄内地方に置かれていたが天平5年(733)聖武天皇の時代に秋田村高清水岡に移されている。「出羽柵」設置の目的は蝦夷征伐であり、東北地方の開拓であり、律令体制を辺境部にまで浸透させることにある。続日本史の記述では和銅2年(709)に諸国に命じて蝦夷征討のための兵器を出羽柵に運んだとあり、これ以前には出羽柵の存在があったと考えられている。和銅元年(708)に越後国に出羽郡が新たに置かれ、和銅5年(712)には出羽国が置かれたので、出羽郡設置前後に出羽柵も設置されたものと推定されている。 この時代、和銅3年(713)には藤原京から平城京へ遷都が行われ、日本で広範囲に流通した貨幣としては最古の物とされる和同開珎が鋳造され、九州最南端に大隅国が設置されるなど中央集権体制、律令体制国家の基盤が着実に整備されつつあった時期といえる。また、出羽柵が庄内地方から秋田へ移転された背景には渤海国との交流がその理由の一つともされる。神亀4年(727)に最初の渤海使が出羽国に来着し、天平11年(739)に2回目の渤海使が、以後八世紀に4回ほど来着している。渤海使の応対は出羽柵、秋田城で行われたようで、その遺構の一部といえるものも出土されている。

 
天平宝字4年(760)ころに出羽柵は秋田城と呼ばれるようになり、奈良時代には国府も置かれた。
 秋田城は現在のJR秋田駅から北西に約5kmの標高40mほどの丘陵地にある。ここを訪れる前に江戸時代、佐竹氏20万石の居城であった久保田城を見学し、ついで秋田県庁近くの日吉八幡神社に建つ三重塔を見学する。そこから約3kmを歩く。体力には自信があると日頃から自負しているが生憎の炎天下、やはり年には勝てない。バスなりタクシーを利用すればよかったと悔やむ。それでも広大な秋田城址の丘に立てば、いにしえの日本人の気宇壮大な気概が偲ばれ、流れる汗も爽快さに変わる。遺構そのものは考古学の対象でしかないが、復元された東門と築地塀からは当時の辺境の地を守る兵士の姿が想像できる。そんな思いで木陰の芝生に腰を下ろして小一時間ほどの時を過ごす。(2016年8月28日) 

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.