日本の城ある記(北海道東北の城・久保田城) 

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 久保田城  (くぼたじょう)

訪問記
 秋田市を訪れたのは初めてではないが、久保田城を訪ねたのは今回が初めて。これまではいずれも仕事で秋田を訪れ、城見物の時間的な余裕がなかった。
 久保田城はJR秋田駅から至近距離にあり、商店街を眺めながらゆっくりと歩いても15分ほどで到着する。因みに久保田城は江戸時代には秋田城と呼ばれることもあったようだが、現在では奈良時代に国府の所在地でもあった秋田城との混同を避けるためか、久保田城と呼称することが一般的なようだ。お城の案内所でもらったパンフレットには千秋公園・久保田城と記載されている。

 
久保田城を築いたのは佐竹義宣。義宜は豊臣政権下では徳川、前田、島津、毛利、上杉と並んで六大将と呼ばれる大名であり、水戸城を居城として54万石を領していた。しかし関ヶ原の戦の前後、義宜は家康の東軍に与するか西軍の三成に与するかあいまいな態度をとった。また上杉とは同盟を結ぶ密約があったとされる。東軍勝利の結果、慶長7年(1602)家康から出羽国秋田郡へ国替えを命じられ、所領は54万石から20万石へ減封される。
 秋田に転封となった義宜は現在の秋田港に近い土崎湊城に入る。この城はこの地で5万石を領していた安東実季が慶長4年(1599)に完成させた城で二重の水堀で囲まれた平城であったが、20万石の城としては手狭で拡張の余地がないことから慶長8年(1603)から新たに久保田神明山に築城を開始する。丘陵の頂上部に本丸を置き、一段下がった二の丸を内堀で囲み、その周囲に三の丸、西曲輪、北の丸が配置された。曲輪はすべて土塁で築かれ石垣は虎口などの一部に使用されただけである。本丸には天守代用となる二階建て櫓「出し御書院」が建てられ、その他四棟の櫓と多聞長屋五基があげられた。二の丸には二重櫓四基、また本丸の中央部には書院造りの御殿が建てられた。これら建物は度重なる火災で焼失し、現在残るのは本丸一の門桝形にある御物頭御番所のみ。現在城跡は千秋公園・久保田城として秋田市の名勝として親しまれている。平成元年(1989)に久保田城内8か所に建てられた櫓のうち最大の隅櫓(本丸新兵具隅櫓)が三重四階で復元され、平成13年(2001)に本丸表門が復元されている。(2016年8月28日) 

久保田藩 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高  入封時藩主   
慶長7年
(1602)
20万5千石 佐竹義宜(外様)常陸水戸より入封 佐竹氏は明治維新まで12代領主を務める

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