日本の城ある記(北海道東北の城・横手城) 

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 横手城  (よこてじょう)

訪問記
 早朝に横手城を訪れる。この時間、私がこれまで訪れたお城での経験では観光目的の人の姿はまばらで、たまに出会う人も地元の人が早朝の散歩をしている姿だ。しかし今朝は違う。お城で出会う人に地元の人の姿は、おそらくない。昨夜、横手の隣の町、大曲で花火大会があった。日本最大の花火大会として全国的に有名な催しだ。お城の駐車場にはワゴン車が数台停まっている。テントを張っている人の姿もある。なにしろ1年前から予約しないと宿が取れないほどの人気だそうで、宿が取れなかった人が仮眠の場所としているようだ。そのついでにお城見物をしているといった様子に見える。
 横手は東北における武家社会の幕開けにまつわる土地といわれる。出羽国に置かれた古代日本の城柵の一つ「金沢柵」があった地であり、平安時代の後期には源義家が奥州の豪族清原氏の内紛を平定し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった後三年の役の決戦の舞台となった地でもあるという。戦国時代になり小野寺氏が横手に城を築き、 ここを本拠としてこの地を支配する。関ヶ原の戦いのとき、当時の城主小野寺義道は上杉と通じたことにより西軍側とされて慶長6年(1601)に家康によって改易させられる(石見国津和野に追放)。慶長7年(1602)に佐竹氏が常陸水戸から秋田に転封されると、横手は久保田城の支城となる。一国一城の制度下で横手城は廃城とならず、大館城と共に存続する。佐竹氏は居城である久保田城を含めて三つの城を持った。
 横手城は横手市街の北東の丘陵地・朝倉山にある。東部には深い沼地があり、山裾の西から東に横手川が湾曲して流れている。横手城に天守は築かれなかったが、現在は二の丸跡に模擬天守が建てられている。外観は三河の岡崎城をモデルとしたという。
 横手の町を訪れたのは今回が初めて。”生甲斐や雪は山ほど積もりけり”は「若い人」「青い山脈」の著者として知られる石坂洋次郎氏が詠んだもの。石坂洋次郎は青森弘前の出身であるが慶応義塾文学部を卒業後に10年余りを横手で教員として過ごす。私は読んだことがないが横手を舞台とした「山と川のある町」という小説もあるらしい。町を歩くと冬の風物詩「かまくら」の案内が目に付く。真夏の今、雪のドームを作ることができるほどの大雪が積もる雪国の姿を想像することはむつかしいが、雪明りの落ち着いた風情の街並みが写ったパンフレットを見ると、機会があれば、そんな時期に訪れてみたい気分にもなる。(2016年8月28日)

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