日本の城ある記(北海道東北の城・鶴ヶ岡城) 

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 鶴ヶ岡城  (つるがおかじょう)

訪問記
 鶴岡へは旅行費用の節約と旅行行程の便利さから夜行バスを使った。新宿を午後9時50分に出て鶴岡に翌日の午前5時20分に到着。座席はほぼ満席。私のような60代後半の年齢層の乗客も目立つ。この頃の老人は元気だ。とはいえ何時まで健康を維持できるか分らない。できれば介護状態になり他人の世話になる前に、元気なうちに死にたいものだ。それはさておき、鶴ヶ岡城のある鶴岡市は私が30代後半から40代にかけて愛読した時代小説の作家藤沢周平氏の出身地。小説の舞台となった架空の藩、海坂藩は鶴岡藩(庄内藩)をイメージしたものといわれている。それだけに一度は訪れたいとかねがね思っていたが、実現したのは30年後の今日。鶴ヶ岡城の敷地内には藤沢周平氏の記念館もあるが、訪れたのは早朝。まだ開館前だった。
 鶴岡駅から城跡まで20分ほど歩いた。午前6時の人通りの少ない鶴岡の町を歩く。初めて訪れる町はそれだけで興味が湧く。旅人になった気分は何歳になっても心を弾ませる。特にそれが早朝であれば何もかも新鮮に感じられる。道々城下町の面影はないかと探すが、残念ながら駅から城跡までの道沿いではそれらしき雰囲気の場所には出会えなかった。城そのものも江戸時代の建物は全て取り壊されて土塁と堀が残るだけ。それでも新緑に覆われた城内をのんびりと散策すれば、少しは藤沢周平氏の小説の登場人物になった気分にもなる。できれば雪に覆われた城跡も見たいものだと思いながら、この後に訪ねる予定の羽黒山の五重塔へ向かうバスの発車時刻までの約2時間、鶴ヶ岡城の心地よい空気に包まれて過ごす。(2015年5月24日)
 この地に最初に城を築いたのは鎌倉時代初期、出羽国大泉荘の地頭であった大泉氏とされる。城は大宝寺城と呼称され、大泉氏は後に武藤大宝寺氏を名乗る。戦国時代、武藤大宝寺氏は庄内地方で有力な勢力を保ち、羽黒山の別当職も務めていた。しかし天文元年(1532)一族の庶流でもある砂越(さごし)氏に大宝寺城を攻め落とされ、鶴岡よりも日本海よりの高館山の山麓に尾浦城を築いて移る。その後武藤氏は砂越氏と和睦して大宝寺城は尾浦城の支城となり、武藤氏が庄内地方を統一する。天正11年(1583)最上義光と結託した家臣の謀叛によって武藤氏は滅ぼされ、庄内地方は最上氏と上杉氏の係争の場となる。天正16年(1590)になって上杉景勝は庄内地方を占拠し、その拠点を尾浦城とし、大宝寺城は支城として越後兵が常駐した。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで上杉氏は西軍に加担。覇権を握った徳川家康によって上杉氏は会津120万石から米沢30万石に減封され、代わりに庄内を支配したのは山形城を拠点とする最上義光となる。この時最上氏は24万石から57万石に加増されている。義光は庄内を支配するため尾浦城、大宝寺城、東禅寺城(現酒田市)の諸城を修復。慶長8年(1603)に酒田浜で大亀が上がったことから東禅寺城を亀ヶ崎城と改称し、同時に大宝寺城も鶴ヶ岡城と改称した。
 最上氏は山形藩第3代藩主・義俊の代に跡継ぎを巡る御家騒動を起こし元和8年(1622)改易となる。代わりに信濃松代から酒井忠勝が13万8千石で入封。忠勝は入封後すぐに鶴ヶ岡城の大改修に着手し同時に城下町の整備もおこない、ここを本拠とする。城の改修は3代にわたる大工事で54年の歳月を要して完成する。
 鶴ヶ岡城は赤川西岸の僅かに高い場所に立地し、本丸を二の丸が囲み、家臣団の屋敷を配した三の丸がそれを囲むという典型的な輪郭式の縄張り。本丸には北西に2重櫓が建てられ天守代用とされ、南西隅にも櫓が備えられた。また923坪もの壮大な御殿も建てられた。本丸の一部に石垣が使用されたが、ほとんどは土塁で幅約20mの堀に囲待てている。
 慶長4年(1686)に起こった戊辰戦争では奥州越列藩同盟に与し会津藩とともに最強固派として官軍と戦い、会津藩降伏後の明治と改元された後まで抗戦した。明治4年(1871)の廃藩置県により廃城となり、明治9年(1876)に城内の建物は全て破却される。
 

鶴岡藩(庄内藩) 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高  入封時藩主   
慶長6年
(1601)
最上義光(外様) 最上氏(山形藩57万石)の支城となる。
慶長8年(1603)鶴ヶ岡城に改称。 
元和8年
(1622)
13万8千石 酒井忠勝(譜代)信濃松代より入封  

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