訪問記
米沢城を巡る人々は多彩である。私の知る限りでは伊達正宗に始まり蒲生氏郷、上杉景勝と直江兼続。そして上杉藩の財政を立て直した上杉鷹山こと米沢藩9代藩主の上杉治憲。テレビで放映される歴史ドラマに頻繁に登場する人物ばかりである。もう一人忘れていた。忠臣蔵で主役の一人、吉良上野介の長男が上杉家の養子となり第4代の藩主上杉綱憲となっている。
米沢城を最初に築いたのは鎌倉時代の中期で、鎌倉幕府の重臣大江広元の次男・時広とされる。時広は出羽国置賜群長井郷の地頭として派遣され、長井姓に改名している。150年ほど長井氏の支配が続くが、室町時代の初期に伊達氏の侵攻を受けて落城。以後この地は安土桃山時代まで伊達氏が支配することになる。天文11年(1542)〜天文17年(1548)に起きた伊達氏当主の稙宗とその長男晴宗との内紛、天文の乱によって南東北一帯を支配下に置いていた伊達氏の勢力が削がれることになる。この乱は稙宗が隠居し、晴宗が家督を継ぐことで和解するが、晴宗は本拠地を米沢城に移す。永禄10年(1567)米沢城で伊達正宗が誕生する。幼名は梵天丸。天正17年(1589)正宗は会津の蘆名氏を破り黒川城(後の会津若松城)を本拠にするが、豊臣秀吉がこれを認めず翌年に本拠を米沢城に戻す。さらに天正19年(1591)秀吉は正宗を岩出山城(現在の宮城県大崎市)へ移し、代わって米沢は会津に封じられた蒲生氏の支配するところとなる。慶長2年(1597)蒲生氏が下野宇都宮に転封となると、越後から上杉景勝が会津120万石の領主として入封し、景勝は会津を本拠とし、米沢城には重臣の直江兼続が城主として入る。
関ヶ原の戦で西軍に与した上杉氏は30万石に減封されて本拠を米沢城に移す。更に3代藩主綱勝は嗣子を定めないまま急死、本来なら断絶となるところ末期養子が認められ藩は存続するが石高は15万石に減額される。この時に末期養子となった4代目の藩主・綱憲は吉良義央(上野介)の長男。もっとも吉良家と上杉家とはこれまでに姻戚関係がなかった訳ではない。吉良義央の正室富子は上杉綱勝の妹であった。
米沢藩は会津120万石から30万石に減封され、更に15万石まで減封された為に恒常的に財政難であった。しかも減封されても家臣をほとんど削減しなかった。現代でも経営危機に陥った経営者が従業員をリストラせずに会社再建を成し遂げる話は美談として語られるが、果たして米沢藩の処置は美談であったのかどうか疑問なところ。経営が再建できればよいができなければ無能な経営者の烙印を押される。封建時代の人の流動性は非常に低く、そのまま家臣を引き連れなくては、すぐさま路頭に迷うことになることは想像できるが、それでも収入の大半が領内で産出される米の生産量に限られるのであれば、家臣を削減しないのは集団自殺と同じ。そこまで至らなくとも劣悪な生活環境に落すことになる。120石取の武士が禄米15石に減らされても生活だけはできるだろうが、15石取りの武士はこれ以上減らされれば飢えるしかない。一体如何いうからくりで藩士の生活を成り立たせたのか不思議だ。幕府に領地を返上して藩を解体する話もあったらしいが、結果的には日向高鍋藩から養子として迎えた第9代の藩主治憲の改革により藩財政は立ち直る。この改革がなければ、おそらく米沢藩は明治まで存続しなかったのではないか。そして藩士を減らさなかったことは美談でなく、歴代藩主は無策・無謀で無責任と烙印を押されていたに違いない。治憲は隠居後に剃髪して鷹山と号した。米沢城には上杉鷹山の銅像が建っている。その表情はかつて米沢藩を苦しめた諸々の困難など、何もなかったように飄々としている。窮地にあっても動じない、今更ではあるが、私もそんな境地になりたいものだ。(2015年5月25日) |