日本の城ある記(関東の城・沼田城) 

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 沼田城 (ぬまたじょう

訪問記
 高崎や前橋までは何度か訪れたことはあるが、この先の沼田まで訪れたのは初めてのこと。観光でも、仕事でも縁はなかった。ただし、尾瀬に行く途中で通過したことはある。訪れたことはないが沼田の地名は知っていたし、戦国末期から江戸初期にかけて真田の一族がここを居城にしていたことも知っていた。当然、城跡の存在も知っていたが、同時に素人の私が興味を抱くような遺構が残っていないことも知っていた。だからわざわざ足を延ばして訪れようとは考えていなかったが、吹き割の滝を見学する途中で寄り道することにした。

 古地図で見る沼田城は利根川水系の河川が削った段丘上の丘に建つ堅固な要塞である。真田氏が築いた城郭は江戸時代になって破却され、現在残る遺構からはその規模を想像することはできないが、それでも段丘の上に立ち利根川方面を遠望すれば戦国時代の武将の夢が蘇ってくる。沼田城を巡っては目まぐるしく支配者が交代した。その中で真田一族が戦国大名の地位を築いたのもこの城を巡る争いから。そんなことを考えながらのんびりと城跡を散策した。
(2012年7月22日)        
 この地に最初に城が築かれたのは天文13年(1544)沼田顕泰によるとされる。沼田氏はこの地を支配する戦国武将で、以後ここを拠点とした。当初は山之内上杉家と通じていたが小田原北条氏の上野侵攻によって沼田一族で内紛が起き沼田顕泰が追放されて北条方に与することになる。しかし永禄3年(1560)に上杉謙信に攻められ、その支配下となる。謙信死後の(1578)に小田原北条氏が沼田城を攻略、北条氏の支配へと変わる。天正8年(1580)甲斐武田と越後上杉との間で同盟が結ばれ、武田側の真田昌幸が沼田城の攻略を開始する。昌幸は調略により沼田城を無血開城させる。
 天正10年(1582)武田氏が滅亡すると沼田城は独立した真田昌幸の支配となる。しかし直後に旧武田領を巡って徳川家康、北条氏直、上杉景勝が争い、沼田城を含む上野は北条の支配地として決着するが、真田氏は徳川の支配下に入りこれに抵抗。さらに、今度は北条と徳川の間で和睦が成立して徳川は真田氏の沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換することになる。
 真田氏はこれにも抵抗して上杉に援軍を求め、徳川側と信州上田城で戦い、徳川側を敗走させた。この戦を通して真田氏は戦国大名の地位を築くことになる。真田氏はその後は豊臣政権に臣従。天正17年(1589)には豊臣秀吉の裁定により沼田城は小田原北条氏の支配となるが、北条側が真田昌幸の名胡桃城を略奪したことに端を発した小田原征伐(天正18年・1590)により北条氏が滅亡し、沼田城は真田昌幸の長男・信幸が支配することになる。信幸は天正19年(1591)から慶長2年(1597)にかけて沼田城を修築。、二の丸、三の丸、水の手曲輪が築かれ五重の天守も建てられた。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで東軍側についた信幸は信州の上田城、上野の沼田城を継承して9万5千石の上田藩として立藩。元和2年(1615)大坂夏の陣の後に沼田城は信之(信幸を改名)の長男・信吉を城主とした。天和元年(1681)信吉の後を継いだ信利は暴政と江戸両国橋掛け替え用材の調達遅延を理由として改易させられ、これ以後は享保17年(1732)まで天領となる。この間に城は破却され、堀も埋められた。戦国時代の陣取り合戦の舞台となった沼田城の歴史はここで途切れる。元禄16年(1703)に本多正永が入封して城を修復するが、居館程度の規模であった。


   沼田藩 歴代藩主
 家紋  入封時期 禄高  入封時藩主  
元和2年
(1616)
2万7千石 真田信吉(外様)上田藩父信之から沼田の領地を分地されて立藩 天和元年(1681)信利の代に改易となり、一時廃城 
元禄16年
(1703)
2万石 本多正永(譜代)下総より入封 享保15年(1730)本多正矩駿河田中へ転封 
享保17年
(1732)
2万5千石 黒田直邦(譜代)常陸下館より入封  
寛保2年
(1742)
3万5千石 土岐頼稔(譜代)播磨より入封  

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