日本の城ある記(関東の城・箕輪城) 

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 箕輪城  (みのわじょう)

訪問記
 箕輪城は高崎からバス便で約30分。現在は高崎市の市域となった箕郷(みさと)町にある。横浜を早朝に出発し、JRの在来線を乗り継いで高崎駅へ。乗客が3人の路線バスで終点の箕郷町群馬バスのバスセンターに到着。高崎駅から終点までの乗客は私一人だけだった。そこから徒歩で約20分。箕輪城跡東側の中間点にある搦め手口から城内に入る。
 箕輪城は榛名山東南麓に繋がる独立した丘陵にある。最も高い場所で標高280mほど。訪れるまでは山城と思っていたが、なだらかな丘にある平山城である。箕郷町の特産品は”梅”だそうで、城跡のある丘陵地の周りにも梅の木が数多く植えられている。花の咲く頃には毎年梅祭りが催しされるとのことだが、訪れた2月下旬にはまだ花は咲いていない。横浜では梅の花は満開かピークを過ぎているが、このあたりは3月上旬から下旬にかけてが見頃のようだ。
 平山城ではあるが、関東地方の城郭は石垣を用いることは少ない。箕輪城も一部を除いてほとんどは土塁である(ただし堀は6メートル以上埋まっている場所もあり、戦国末期の遺構で発掘調査した場所からは自然石を野積みした低層の石垣も結構見つかっているとのこと)。建物も残っていないので、整備されていない城跡はただの原っぱにすぎない。しかし、ここは発掘調査も行われており、土塁や掘割の復元も進んでいる。それでも観光気分だけで訪れるには物足りない。建物類が無いと、やはり城マニアのための施設でしかない。それでも昨今のお城ブームの影響か、訪れている人は結構いる。そういえば、ここも例の百名城に登録されている城跡である。梅の花が満開になる頃は人であふれているかもしれない。
 城域は結構広い。曲輪の輪郭や堀切跡もよく残っていて見どころは随所にある。一時間ほどの滞在を予定していたが、二時間は費やした。それでも全部を見たわけではない。帰りのバス便の都合もあり切り上げて帰ることにする。       (2015年2月24日)
 
 この地に最初に築城したのは永正9年(1512)この地を支配していた長野氏の長野業尚とされ、その子の信業の時代は当地の守護代である山内上杉氏を凌ぐ勢力を持っていたとされる。城域の西側には榛名白川が流れ、南には現在は埋め立てられているが榛名沼と呼ばれる湿地帯が広がる自然の地形を防御に生かした縄張りとなっている。城は長野氏の築城から徳川家康が関東に転封された頃まで維持され、その間支配者も変遷し、城郭はその都度何度も改築されている。城の規模・縄張りは大きくは長野氏・武田氏の支配時代、北条氏の支配時代、徳川家康の家臣・井伊直政の時代に区分される。現在残る縄張りは井伊氏の時代のもの。東西約500m、南北約1,100mの広大な敷地を有し、標高のもっとも高い霊置山(たまきやま)に御前曲輪、南に下って順に本丸、二の丸、郭馬出と尾根上に配した曲輪を城の中心軸とし、左右に多くの曲輪を配している。
 戦国時代、上野国は関東管領・山内上杉氏の統制下にあったが、永禄元年(1558)時の管領上杉憲政が越後に敗走した以後は小田原北条、甲斐武田、越後長尾(上杉)が侵攻を繰り返す戦場の場となる。箕輪城の長野氏もたびたびの侵攻に耐えたが、永禄9年(1566)武田軍の総攻撃を受けて落城。箕輪城は武田氏の上野国支配の拠点となる。
 天正10年(1582)天目山の戦で武田氏は敗退し滅亡すると、織田信長の家臣・滝川一益が上野国を支配。箕輪城を接収する。しかし同年に信長が本能寺の変で亡くなると小田原北条氏が上野に侵攻、神流川の戦で滝川一益を破り、箕輪城は北条氏が支配する。
 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐に伴い、箕輪城は前田利家、上杉景勝の軍によって攻撃され開城。同年に徳川家康が関東に転封となり、箕輪城には井伊直政が12万石を拝領して入城する。
 井伊直政は箕輪城を近代城郭に改修するが、中山道の要害の地である高崎城(和田城)を戦略上の拠点として重視する家康の意向に従い、慶長3年(1598)高崎へ移転。以降、箕輪城は廃城となった。 

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