日本の城ある記(関東の城・高崎城) 

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 高崎城  (たかさきじょう)

訪問記
 高崎は仕事でも、草津温泉への中継地としても、たびたび訪れた町である。しかし高崎城へ寄ることはこれまでなかった。今回も箕輪城を訪ねた帰りに寄ったもので、時間が無ければ通り過ぎる予定だった。徳川幕府の有力大名の赴任する城であっても、遺構はほとんど残っていないと聞いていたので、ここだけを目的に訪れる気にはならなかった。ついでがあれば訪ねようと、そう考えていたが、まさにそのついでの時が今日である。都市部の多くの城跡が公共施設の用地として供されているように、高崎城も市役所やその他の公共施設の用地として活用され、三の丸の土塁、堀跡以外は全て破却されている。もっとも国土の狭い日本では、特に平城においては、広大な跡地が有効に活用されることは理にかなったこと。だからそれを非難するつもりはない。全国各地のかつての城跡に、しかもほとんど何も残っていない城跡に天守や石垣をわざわざ復元するのは実に無駄なことだ。余裕があるなら現状を維持、整備するくらいがちょうどいい。そんな思いで高崎城跡を訪ねたが、その思い通りであったことに満足する。堀端や土塁は憩いの場として活用されている。高崎城は現在も十分に生きている。(2015年2月24日)
 高崎城の歴史は平安時代に遡るという。この地の豪族和田義信が築いたのが最初とされる。和田氏は室町時代は関東管領の上杉氏の配下となった。しかし永禄4年(1561)に時の城主和田業繁は上杉から武田信玄に鞍替えする。上杉は和田城を攻めるが落すことはできなかった。武田氏滅亡後に和田業繁の子、信業は北条氏の配下となる。天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐の際、和田信業は小田原城に籠城する。信業が留守の和田城は前田利家、上杉景勝の連合軍に包囲されて落城する。和田城は廃城となった。
 関東へ転封となった徳川家康は慶長2年(1597)に箕輪城へ入封した井伊直政に命じて、廃城となった和田城跡に近代城郭を築城させ、慶長3年(1598)に箕輪城から移転させた。この時、和田城から高崎城へ名称を変更した。関ヶ原の戦の後、慶長6年(1601)井伊直政は近江佐和山へ転封となり、以後短期間で城主が交代するが、元和5年(1619)に入封した安藤重信は元禄8年(1695)に転封になるまで三代、77年間にわたり城を大改修する。この間、寛永10年(1633)には三代将軍徳川家光の弟、忠長が高崎城に幽閉される。忠長は秀忠の三男であり、病弱であったとされる兄の秀光より利発で、忠長を次期将軍職に推挙する一派と家光を推挙する一派との間で争いがあったとされる。これには春日局が駿府に在城していた家康に家光を後継とするべきと直訴したという逸話が残っている。忠長は寛永11年(1634)に高崎城において自刃している。
 壮大な規模を誇った高崎城も明治になり建造物のほとんどは破却され、跡地は陸軍歩兵連隊の駐屯地となった。現在は三の丸の堀と土塁が残っているほか、昭和49年(1974)に市内の農家に払い下げられていた乾櫓が三の丸に模擬石垣を建設して移築された。
 

   高崎藩 歴代藩主
 家紋  入封時期 禄高  入封時藩主  
天正18年
(1590)
井伊直政(譜代) 家康の関東入封に伴い家臣の井伊直政が城主となる。当初は箕輪城を本拠地としたが、慶長3年(1598)に現在地に移転。
慶長9年
(1604)
5万石 酒井家次(譜代)下総臼井より入封
元和2年
(1616)
2万石 松平(戸田)康長(譜代)常陸笠間より入封
元和3年
(1617)
5万石 松平(藤井)信吉(譜代)常陸土浦より入封
元和5年
(1619)
5万6千石 安藤重信(譜代)下総小見川より入封
元禄8年
(1695)
5万2千石 松平(大河内)輝貞(譜代)下野壬生より入封
宝永7年
(1710)
5万石 間部詮房(譜代)相模より入封
享保2年
(1717)
7万2千石 松平(大河内)輝貞(譜代)越後村上より入封

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