日本の城ある記(関東の城・館林城)

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 館林城  (たてばやしじょう)

訪問記
 もう何年も前のことだが館林市に仕事で立ち寄ったことがある。つつじが岡公園となっているかつての館林城の堀(城沼)近くに行ったが、その時はつつじの咲く季節ではなく特に見物することもなく通り過ぎただけだ。お城の遺構があるとは知らなかったし、仮に知っていたとしても仕事の関係者と一緒に行動していたので見学に訪れることはなかったと思う。その時の思い出としては駅の近くのうどん屋で名物の館林うどんを食べた記憶がある程度のこと。江戸時代から小麦の生産が盛んで館林藩の特産品として将軍家に献上された記録もあるという。聞けば、日清製粉の発祥の地でもあるらしい。今回は仕事ではなく、うどんを食べに訪れたのでもない。純粋に城跡を訪ねるためだ。休日であったが市役所の駐車場は解放(?)されていたので勝手に車を止める。
 城の遺構といっても僅かに土塁と堀が残る程度で、かつての3の丸に城門、土塀が復元されているだけだと事前に読んだ案内書には書いてあった。だから期待はしていなかったが、実際に訪ねて、まったく事前の予想通りであったことに納得し、かつ少々落胆。城沼に出て少し散策してみたが今年の日本は何処でもは春の訪れが遅いようで桜の花も硬いつぼみのまま。何時咲くのかと心配するほどだ。城跡見学が一層淋しく感じられる。
 家康が関東に入封して以来、関東周辺の城の多くが廃城、破却された。江戸の周辺は天領や旗本領になって城による統治が必要でなかったこともあるのだろう。江戸城防護のためには空白地帯があった方が良かったのかもしれない。そうなら残された城はそれなりに保存されているのだろうと思うのは間違いだったようだ。館林より江戸に近い岩槻城も川越城も跡かたもなく、といった表現がぴったりするほど城跡が消え失せている。近くの忍城も模擬天守は再建されているが、それも元々の位置とは違う場所だ。城跡が消えたのは、そもそも広大な関東平野の平地に築かれた城で、西国の城のように高石垣を用いた縄張りではなかった。堀も自然の浅い沼や河川を利用したものがほとんどで、石垣でなく多くは土塁で守られていた。廃城になって城を破却することにためらいや、大規模な工事を必要としなかったことが理由かもしれない。それに、江戸時代を通して城主だったのはサラリーマンが転勤するように譜代大名が短期間で交代し、地元と城主との結びつきが少なく、城や城主に対する愛着がなく、その結果城を残そうという機運が高まらなかったからではないだろうか。もっとも、最大の理由は城跡が平坦で広大であったこと。行政機関を設置するのに最良の場所であったことによるのだろう。狭いに日本であるから、全てを残すことなど無理なこと。保存には費用もかかるし、観光用に模擬天守を作っても効果は限定的だ。お城に興味のない人も大勢いるのだからこれもいたしかたないか。(2012年3月25日)
 
 この地に最初に築城したのは赤井照光で天文元年(1532)とされるが、弘治2年(1556)とする説もある。さらに文明3年(1471)に上杉氏が赤井文六、文三の居城である”立林”城を攻略したと記した古文書もあるようなので、古くからこの地を治めていた豪族が館を構えていたと思われる。
 戦国時代は越後の上杉、甲斐武田、小田原の北条の戦いの舞台となる。永禄5年(1562)上杉謙信が関東に進出した際、赤井氏は戦うことなく降伏して開城。謙信は足利城にいた長尾景長を館林城の城主とする。長尾景長は永禄12年(1569)に死去し、近くの太田金山城の由良氏から養子を迎えて城主とする(長尾顕長)。謙信の死後、武田氏や北条氏からたびたび攻撃を受け、天正12年(1584)には北条氏直によって包囲されて降伏した。その後は北条氏の支配する城となったが、天正18年(1590)の小田原の役では石田三成、大谷吉継の軍勢に囲まれ開城する。
 徳川家康の関東入封後は家臣の榊原康政が城主となり、以後4代将軍となった綱吉など家門や親藩大名が城主を務めた。
 城は沼に突き出た台地に本丸を置き、南から囲むように八幡曲輪、二の丸、三の丸を配置。沼を隔てて北側に尾曳曲輪、外曲輪、さらにその北側に総曲輪を配している。曲輪は土塁で防御されているが天守は築かれていなかったようだ。
 館林といえばお城よりむしろ茂林寺に古くから伝わる”分福(ぶんぶく)茶釜”のお伽噺が有名。江戸時代の絵本になって広く知れ渡り現在まで引き継がれている。貧しい男がタヌキを助け、タヌキはその恩返しに茶釜に化け、これを売ってお金に替えるように勧めたということから始まる恩返しのストーリー。”分福”とは福を分けると言った意味と、その茶釜でお茶を沸かすと”ぶんぶく”と沸騰するからという説があるらしい。
    

   館林藩 歴代藩主
 家紋  入封時期 禄高  入封時藩主  
天正18年
(1590)
10万石 榊原康政(家康家臣)家康の関東入封に伴い城主  
葵の字 寛永20年
(1643)
6万1千石 松平(大給)乗寿(譜代)浜松より入封 榊原氏は陸奥白河へ転封 
寛文元年
(1662)
10万石 徳川綱吉(家門・3代将軍家光の4男)入封  
延宝8年
(1680)
10万石 綱吉が将軍となり、その子・徳松が城を継ぐ 天和3年(1683)徳松が死亡したため廃藩となり、城も廃城 
宝永4年
(1707) 
2万4千石  松平(越智)清武(家門)入封  綱吉の兄(綱重)の2男・松平清武が館林城を再築。享保6年に城の再築が完了 
享保13年
(1728) 
5万石  太田資晴(譜代)陸奥棚倉より入封   
延享3年
(1746) 
5万4千石  松平(越智)武元(家門)陸奥棚倉より入封   
天保7年
(1836) 
6万石  井上正春(譜代)陸奥棚倉より入封   
弘化2年
(1845) 
6万石  秋元志朝(譜代)出羽山形から入封   

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