日本の城ある記(関東の城・宇都宮城)

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 宇都宮城  (うつのみやじょう)

訪問記
 
宇都宮は東京から新幹線で40分ほど。在来線の東北本線を使っても1時間30分ほどで行ける。仕事では日帰り圏内であり何度も訪れている。ただし、城跡を見学するのは今回が初めてのこと。もっとも何度も宇都宮を訪問しているが市内中心部を訪れたことはまれで、ほとんどは郊外の工場や事業所だ。
 宇都宮城は徳川将軍が日光参詣する際の宿泊場所となった城。古地図で見ればそれに相応しい備えのある城だが、残念ながら遺構はほとんどない。いや、全くと言っていいほど残っていない。現在城址公園として土塁が築かれ、コンクリート製の櫓が二基再現されているが、何だか映画の撮影セットを見せられているように感じる。歴史を後世に伝える必要があるのかもしれないが、土塁や堀の遺構が全く残っていない場所にわざわざ新しく作り直す必要があるのかとも思う。城跡巡りを趣味とする者にとって、遺構の整備や建物の再現をすることは歓迎するが、これはちょっと違うのではないかと考えさせられる。歴史博物館としての役目もあるのだろうが、逆に安っぽい歴史を伝えられているように感じてしまう。中世から江戸時代まで宇都宮城が重要な役割を果たした場面は多々あると思うが、こうした歴史を伝える箱モノが本当に必要なことなのかと、地元の人に聞いてみたかったが、おせっかいで無責任なよそ者と嫌われるのを恐れて黙って城跡を後にした。
(2012年7月22日)
  
都宮城は関東七名城の一つに数えられる城である。しかし何れの城も城郭の大半は破却され、市街地化されて天守の残っている城は一つもない。宇都宮城も同様である。因みに七名城の他の城は川越城、忍城、前橋城、金山城、唐沢山城、多気城とされる。
 宇都宮の地に最初に城が築かれたのは平安時代に遡る。宇都宮氏の祖に当たる藤原秀郷が陸奥の阿部氏を平定するために起こった「前九年の役」で奥州遠征に赴き、その功績によってこの地一帯の支配権を得、康平6年(1063)に城郭を築いたのが始まりとされる。以来、室町、安土桃山時代に至るまでの500年以上の長きにわたって宇都宮氏は存続、宇都宮城は北関東一帯を支配する拠点となった。最初の城郭はもともとあった宇都宮大明神(二荒山神社)の南に居城を構えた中世城郭とされる。
 宇都宮氏の第3代当主・朝綱は源頼朝から「関東一の弓取り」といわれ、第5代当主の頼綱は奥州藤原氏征伐で功績を上げる。第8代当主の貞綱は元寇の際は討伐軍の総大将として九州に赴き活躍もしている。第10代当主の氏綱は足利尊氏に与し、越後・上野の守護職にに任ぜられて北関東の支配を盤石なものとした。しかし尊氏の死後、鎌倉公方であった足利基氏は上杉憲顕を関東管領に就かせ、正平23年・応安2年(1368)に関東管領上杉憲顕は宇都宮城を攻撃し、宇都宮氏を追討した。その後宇都宮氏13代の持綱は上総国の守護に任じられ、下野守護小山氏が衰退してからはその地位を得たとされる。時々の浮き沈みはあるものの戦国時代末期には戦国大名として小田原北条氏と対峙。天正18年(1590)の小田原征伐の後も下野18万石の所領を維持した。しかし慶長2年(1597)突然改易されて領地を失う。22代続いた宇都宮氏はこれにより歴史の表舞台から去ることになる。改易の理由は太閤検地による石高の不正が露見したとか、諸説ある。
 慶長3年(1598)秀吉は蒲生秀行を宇都宮城主とするが、関ヶ原の戦で覇権を得た徳川家康は慶長6年(1601)奥平家昌を10万石で入封させる。さらに元和5年(1619)本多正純が15万5千石で入封。本多正純は宇都宮城の改修、城下町の整備を行う。この時の整備により宇都宮は城下町、門前町、宿場町の機能を持った都市として発展する基盤となった。
 城郭は同心円状に本丸、二の丸、三の丸、外曲輪と四重に囲み、丸馬出と三日月掘りを構えた特徴のある虎口を備えている。本多正純の時代には天守があったともいわれているが、江戸時代中期には5基の櫓を備えて、北西の櫓を天守の代用にした。
 宇都宮城は将軍の日光参詣の宿泊場所となり、元和3年(1617)徳川秀忠が最初の日光参詣で宇都宮城に宿泊。将軍の日光参拝は以後計19回を数えた。元和8年(1622)いわゆる「宇都宮つり天井事件」が起き、本多正純は失脚。以後、有力譜代大名の赴任地として目まぐるしく藩主が交代した。
 戊辰戦争では旧幕府軍の占領に遭い、その後新政府軍が奪回した激戦地となり、城の大半は焼失した。  

  宇都宮藩 歴代藩主
 家紋  入封時期 禄高  入封時藩主  
慶長6年
(1601)
10万石 奥平忠昌(譜代)入封  
慶長6年
(1619)
15万5千石 本多正純(譜代)下野小山より入封  
元和8年
(1622)
12万石 奥平忠昌(譜代)下総古河より入封  
寛文8年
(1668)
15万石 奥平(松平)忠弘(譜代)出羽山形より入封  
天和元年
(1681)
10万石 本多忠平(譜代)陸奥白河より入封  
貞享2年
(1685)
9万石 奥平昌章(譜代)出羽山形より入封  
元禄10年
(1697) 
10万石  阿部正邦(譜代)丹後宮津より入封   
宝永7年
(1710) 
6万7千石  戸田忠真(譜代)越後高田より入封   
寛延2年
(1749) 
6万5千石  松平(深溝)忠祇(譜代)肥前島原より入封   
安永3年
(1774) 
7万7千石  戸田忠寛(譜代)肥前島原より入封   

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