日本の城ある記(関東の城・足利氏館)

 関東の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 足利氏館  (あしかがしやかた)

訪問記 
 
足利氏館を訪ねたのは厄除けと初もうでを兼ねて佐野厄除大師をお参りした帰り。何れも私にとっては初めて訪れた場所。今でこそ「ばん阿寺」が足利氏の館跡で、それが100名城の一つに選定されていると知るが、訪れた時は全くその知識がない。もともとその近くの足利学校を訪ねる目的で足利市に立ち寄ったもので、足利氏館はついでに訪ねた先。館跡とは知らず、その時はお寺の本堂にお参りして帰っただけだ。もっとも、濠に囲まれたお寺の雰囲気は何か違っていると感じてはいた。これがそのまま当時の館跡であったのかどうかは調べていないが、関東武士団頭領の館というと欅の大きな木に囲まれた佇まいという私の持っている知識以上の立派な構えだ。。四方に濠をめぐらした館は、関東武士団の中でも有力頭領であった足利氏の居宅だけのことはある。堀割と土塁以外に戦時を思わせるものはなく、実際にここで戦闘があったのか分からないが、関東平野で勢力を誇る豪族の暮らし振りが偲ばれる。(2007年1月8日)   
 この地に館を建てたのは、清和源氏八幡太郎義家の三男義国が妻の里である足利荘に下り、その子義康が平安末期に建てたことが最初といわれるが、義康の子、義兼が最初という説もある。義兼の妻・時子は北条時政の娘。また義兼は源頼朝の伊豆挙兵に逸早く駆けつけ功を挙げ、鎌倉時代の最有力の御家人として処遇されていた。
 建久7年(1196)義兼は館の敷地内に持仏堂を建立。大日如来像を安置した。文暦元年(1234)には足利義氏が伽藍を整備して足利氏の氏寺となった。足利8代目の足利尊氏が室町幕府を開くと、長男の義詮が2代将軍として京都へ、二男・基氏は鎌倉公方として鎌倉に居住。足利館は主が不在となった。以後は、ばん阿寺として存続してゆくことになる。
     

足利学校
 足利学校の創設は平安初期、あるいは鎌倉時代と伝えられるが定かな説はなく今なお論争になっている。平安末期(840年頃)に小野篁によって創設されたとの説もあり、学校内のお堂に小野篁の木像も安置されているが、この時期小野篁は流刑に処されており信憑性はないようだ。いずれにせよ足利学校は室町時代中期から戦国時代にかけて最も隆盛を誇ったとされる。日本を訪れたキリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは日本で最も有名で最大のアカデミーであると記している。当時の学生は3000人を数えたという。
 北条氏、足利氏の庇護を受けた学校も豊臣秀吉による小田原征伐の結果、両氏が滅び、学校の財源であった所領も奪われる。しかし、江戸時代に入って家康の保護を受け100石の所領も与えられ、この地を支配する歴代藩主によっても庇護されて再び活況を得た。
 足利学校の教育の中心は儒学であった。また、易学・兵学・医学も教えられており、戦国時代には実践的な学問を身に付けた学生が戦国大名に召抱えられることも多かったようだ。学費は無料。学寮はなく近くの民家に寄宿した。学生は入学すると同時に僧籍に入り、学校の敷地内で自分達が食べる菜園を営んでいたという。生活は修道僧に似ていたかもしれない。
 江戸中期以降、儒学に変わり朱子学が主流となり、また平和な時代が続いて易学や兵学などの学問はすたれて足利学校は衰退してゆく。以後の足利学校の存在意義は貴重な古典籍を大量に所蔵する図書館の役割にあったようだ。 
  

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.