日本の城ある記(関東の城・大田原城)

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 大田原城 (おおたわらじょう) 

   
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 烏山城を見学してから、烏山線の始発駅・烏山駅から乗車して東北本線の西那須野駅で下車。約2時間の道程。さらに西那須野駅から大田原の市街まで路線バスで移動。
 大田原城は大田原市の中心部の東を流れる蛇尾(さび)川の西岸丘陵地にある複郭式平山城。東西約300m、南北450mの規模。比高約25mの最高所に本丸、南に二の丸、二の丸の西に三の丸を配し、本丸の北側に土塁で仕切られ2段に造られた北曲輪、その西側に西曲輪が配されている。大手は三の丸の虎口。二の丸を経て本丸に至る。搦手は北曲輪の下段に蛇尾川に向かって作られている。北曲輪の北端の崖を切り通して奥州街道が通っている。この奥州街道は現在国道461号線となっていて、城址公園のバス停もある。
 国道から城址公園に向うとすぐに「大田原龍城公園」の石碑がある。「龍城」と呼称されるのは縄張りが龍の頭に似ているからという。
 石碑の裏手に登城路があり北曲輪と本丸方面に分かれている。迷うことなく、本丸を目指す。この登城路は築城当時からあったものか、公園を整備した時に造られたものか分からない。本丸は南北65m、東西50mの規模という。四方に高さ3mを超す強固な土塁を巡らせている。土塁には桜の巨木が植えられていて、季節になれば多くの花見客で大混雑が予想される。本丸内に遺構らしきものは見当たらないが、公園整備の一環として野外ステージが造られている。景観を損なうことで城を目的とした観光客には不満と思えるが、それ以外の構造物はなく、また土塁の保存状態も悪くない。
 本丸と二の丸の間には空堀が掘られ橋でつながれている。二の丸にも城の遺構らしきものはない。二の丸の先、南側は丘陵地の先端部分であるのか尾根が細くなっている。ここにも細長い曲輪状の平坦地がある。
 縄張り図を見ると二の丸から本丸土手下の帯曲輪を通って北曲輪に抜けられそうだが、灌木が生い茂っていて抜けられそうにない。いったん本丸に戻り、北側の土塁斜面に造られた道を辿って北曲輪に出る。北曲輪も本丸同様強固な土塁で防御されている。公園であることから低年齢層の利用する遊具が置かれているが、城郭の保存状態は悪くない。土塁で仕切られ一段下がって作られた北曲輪の北側は現在農耕地となっていて立ち入ることは出来ない。搦手口が確認できなかったことは残念。少々急ぎ足で城郭を一巡りしたが、本数の少ない路線バスに乗り遅れないように大田原城を後にする。(2019年3月18日)
 大田原城は天文14年(1545※天文12年・1543の説もある)大田原資清(すけきよ)によって築かれた。それまで大俵(大田原)氏の居城は水口城(大田原市に所在)であったが、大田原城に居城を移して名も改めている。大田原資清は那須氏(烏山)の重臣で那須七騎に数えられた一人。先祖は武蔵七党の一つ、丹党(たんとう)の一族で現在の埼玉県児玉郡神川町に居住して阿保氏を名乗っていたという。
 天正18年(1590)の小田原北条氏征伐に際して大田原氏は秀吉軍に参陣し、秀吉から本領(約7千石)安堵されている。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦では東軍に与し、徳川家康から上杉景勝の攻撃に備えるよう城の修復を命じられている。この功績により加増されて大田原氏は1万2千石の大名となる。以後明治維新まで大田原氏は城主であった。

  大田原藩 歴代藩主
 家紋  入封時期 禄高  入封時藩主  
慶長5年
(1600)
1万2千石 大田原晴清(外様) 関ヶ原の戦で東軍に与し、加増されて大名となる

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