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城ある記
宇都宮から烏山線で約50分。終点の烏山駅で下車。ここから徒歩で烏山城に向かう。事前に確認した烏山市のHPには烏山城の登城ルートとして@釜ケ口A毘沙門山口B七曲口C十二曲口の四つのルートの案内があり、お勧めコースはBの七曲口とあったが、何故か毘沙門山経由のルートを辿ることに。ちなみに@のルートは昔の大手口。Bのルートは江戸時代に整備された大手口。CのルートはBと同じ時期に整備された搦手口。Aの毘沙門山ルートは正式な登城口ではく現代に遊歩道として整備されたもの。
毘沙門山へは八雲神社参道(?)の長い石段を登り、更に結構傾斜のきつい山道をひたすら歩く。少々汗をかいたがそれほどの距離もないので一気に登り切る。山頂には防災無線のアンテナが。また、ここからは烏山市街が一望できる。少し下って登り返した地点に「筑紫山」の案内板がある。それによれば大同2年(807)征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の途中ここに祠を建立し、この地を筑紫山と命名したとある。祠は明応年間(1496)に今の宮原に遷宮されたとのこと。江戸時代に作成された正保城絵図には「筑紫山」の記載がある。ここからはほぼ下りの山道を進み、七曲口からのルートと合流して車橋跡に出る。車橋跡は常盤曲輪の間に設けられた堀切に架けられた橋で、車輪が付けられて戦時には引き込める構造であったもの。ただし現在は土橋となっていて橋は架かっていない。 |
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烏山城は標高約200mの八高山(比高約100m)に築かれた山城。15世紀前半に上那須氏と下那須氏に分裂した那須家の、下那須氏(沢村五郎資重”すけしげ)が応永25年(1418)に築城したとされる。城域の主要部分は東西約350m、南北約600m。連郭式の縄張りで、五城(本丸、古本丸、中城、北城、西城)三郭(常盤曲輪、大野曲輪、若狭曲輪)と称されている。
戦国時代、烏山城は常陸の佐竹氏によって度々の攻撃を受けるがいずれも撃退している。天正18年(1590)の小田原征伐の時、那須氏は秀吉の陣営に遅参したことを理由として改易となり、織田信長の次男である信雄が城主となるがその期間は僅かに2か月ほどであったようだ。(信雄は秀吉から三河・遠江への転封を命じられたがこれを拒否したため烏山に流罪となったともいわれる。信雄はその後出家して秋田、伊予へ移っている)。織田信雄に代わり忍城の城主であった成田氏長が2万石を拝して城主となる。江戸時代になり元和8年(1622)成田氏はお家騒動により改易。以後頻繁に城主が交代するが、享保10年(1725)に大久保氏が入封して明治維新まで城主を務めている。 |
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車橋跡を通り江戸時代は二の丸と位置付けられた常盤曲輪へ。常盤曲輪の壁面には最大で2mほどの石垣が組まれている。常盤曲輪と本丸の間には正門が設けられ、石垣土塁で固められている。正門跡を抜けると本丸へ。本丸は北辺40m、南辺70m、東西65mの台形。本丸南西に石垣で造られた内桝形の虎口がある。
本丸と古本丸の間は堀切で隔てられていて土橋によって結ばれている。明応年間(1492〜1501)に行われた城の拡張によって現在の本丸が整備され、古本丸は本丸の座を明け渡したようだ。
古本丸から中城、さらに北城へと向かう。本丸から北城までは北方に向かってほぼ一直線の連格式の縄張り。いずれの郭も空堀で区切られている。本丸の虎口以外に石垣を用いた形跡はない。土の城だが、それでも各郭は良好な状態で残っている。
北城から空堀に降り、大野曲輪へ。ここからさらに空堀の底をつたって西城へと向かったが樹林に阻まれ自分の位置を見失う。曲輪らしき跡を見つけても、それが城址なのか自然の地形であるのか、或いは植林のために整備したものなのか判断ができない。やむなく北城まで戻る。北城と中城を隔てる空堀から十二曲口への道が続いているが、そちらには向わず、中城の土手下を通って常盤曲輪の方角へ。厩跡、塩倉跡を経て車橋跡まで歩く。ほぼ平坦な道で、竪堀跡も見られず山城らしさが感じられない。
車橋跡からは七曲口への道を下る。名前の通り、曲がりくねった登城路で、勾配も結構きつい。改めて烏山城が山城であることを認識。
七曲道を下ったところに三の丸がある。三の丸は万治2年(1659)堀親昌が城主の時に整備されたもので、御殿と多聞櫓が築かれていた。現在は広大な草地となっている。この一角に寿亀山神社の祠があり、享保10年(1725)亀山城主となった大久保常春(つねはる)の木像が安置されている。大久保常春は享保13年(1728)将軍吉宗の時に老中となるが、同年に在職のまま死亡。木像は吉宗が常春の死を悼み造らせたものと伝えられている。(2019年3月18日) |
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