日本の城ある記(関東の城・小山城)

関東の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 小山城(祇園城) (おやまじょう・ぎおんじょう) 


ある
 大田原城を見学した後、宇都宮線の小山駅に着いたのは午後4時を過ぎていた。3月下旬のこの時期、日没までの時間はそれほどない。それでも小山城は駅から徒歩で10分ほどの距離にあるとのことだったので、訪れることにした。
 駅前の通りを西に真直ぐ進むと思川に架かる観晃橋に着く。小山城址はこの橋の手前にある。それにしても「思川(おもいがわ)」とはロマンチックな響きのある名前だ。小山城が築かれた当時からこの名前であったのか調べてみたが、違っていた。近くの神社の主祭神であった宗像三女神の一つ、沖津宮(田心姫)が名前の由来のようで、田心が「思」に変化して「思川」となったようだ。しかもこの名前になったのは昭和40年(1965)以降のこと。以前は清瀬川、小倉川と呼称されていたようだ。


 小山城は平安時代末期に小山政光によって築かれたといわれているが確証のある資料はないようだ。小山氏は平将門の乱を平定した藤原秀郷の子孫とされ、源頼朝の挙兵から平家滅亡まで頼朝に従って武功をあげ、鎌倉時代は下野国の守護職を務めていた。小山氏はこの地域に小山城をはじめとして鷲城、長福城、中久喜城を築いて地域一帯を支配していた。足利尊氏が挙兵して南北朝時代となると、小山氏は北朝方の尊氏に加勢しする。このころ小山城内に祀っていた祇園神社の名前を取って小山城を祇園城へと呼称するようになったようだ。しかし延元2年・建武4年(1337)南朝方の北畠顕家が10万ともいわれる大軍を率いて奥州から進撃、この過程で小山城(祇園城)は顕家軍に攻撃され落城する。小山氏と下野での覇権を競っていた宇都宮氏はこの時南朝側に与して顕家の軍に加わっている。当時の小山城主であった朝郷は捕らえられ下野守護職をはく奪され、下野守護職は宇都宮氏が継承する。その後、その宇都宮氏も足利尊氏に味方し、足利政権の内紛で勃発した観応の擾乱(じょうらん)では尊氏側につき、尊氏の弟・直義派を攻撃している。南北朝の時代の権力闘争は実に複雑怪奇で目まぐるしく変化する。生半可な知識では理解に苦しむ。このとき、小山氏を継承した小山氏政も尊氏側に与している。延文3年(1358)尊氏が没し、その子義詮が2代将軍となると関東の勢力地図も変化する。足利直義派として追放された上杉憲顕が復権。これに抵抗する宇都宮氏は武力蜂起するが失敗、下野の守護職は再び小山氏のものとなる。
 康暦2年(1380)小山氏と宇都宮氏の争いが勃発する。原因は領土争い。この争いで宇都宮氏の当主・基綱は討ち死にする。当時の小山氏当主は小山義政。これに対応して鎌倉公方足利氏満は関東動員令を発して義政を追討する。小山義政は降参し、下野の守護職は関東管領の上杉憲方のものとなる。しかしこの処置に不満を持った義政は翌年に再び武装蜂起をするが、今度も幕府側に鎮圧される。小山義政の全ての領地は幕府側の管理下に置かれ、義政は出家して小山城(祇園城)に蟄居する。
 弘和2年(1382)になり小山義政はその子・若犬丸を伴い小山城(祇園城)を自焼して小山郊外の粕尾に城を築き抵抗を計る。しかし3度目の蜂起も圧倒的な幕府軍の攻撃により敗走。小山義政は自害する。ただし、これによっても小山氏と小山城(祇園城)の関係が途絶えたことにはならなかった。義政の子・若犬丸は逃走し奥州の南朝方の勢力によって保護されていた。応永3年(1396)若犬丸は突如として小山城(祇園城)を占拠する。鎌倉公方氏満は自ら軍を率いて出陣。不利を悟った若犬丸は小山城(祇園城)を脱出するが、応永4年(1397)会津に追い詰められて自害。若犬丸の二人の遺児・宮犬丸と久犬丸は捕らえられ、鎌倉に護送された後に六浦沖で海に沈められ、これによって小山氏の嫡流は完全に途絶える。しかしながら鎌倉公方は地元での小山氏の影響力が強いことから小山氏旧臣や領民の不満を抑えるため小山氏と同族の結城泰朝を後継者とし、関東八屋形(宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏)の一家として鎌倉公方を助ける組織に編入する。
 現在城址公園と整備されている区域は、かつての小山城の城域からはかなり縮小されているようだ。観晃橋の手前にある城址公園の入口はかつての三の丸である。もっとも、築城当時の城域は現在に残る規模と大差ないとの説もある。戦国時代の小山城は鎌倉公方、古河公方の配下となり、最終的には小田原北条氏の支配下に組み込まれて行く。この過程で縄張りは拡張され、堀も深く掘られる。
 天正18年(1590)秀吉による小田原征伐のとき、城主であった小山秀綱は北条氏に味方し、これが為に所領を没収される。小山城およびその所領は家康の次男で結城氏の養子となった秀康の所有となる。関ヶ原の戦の戦で天下の覇権を得た徳川家康は慶長13年(1608)家臣の本多正純を3万3千石で小山城の城主とする。しかし元和5年(1619)正純は宇都宮15万5千石の城主として転封となり、以後小山城は廃城となった。現在の城址は市民憩いの公園として整備されてはいるが、廃城から400年ほど経過した土の城は今なお城としての存在感を保っている。(2019年3月18日)
 

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.