日本の城ある記(関東の城・下野 唐沢山城)

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 唐沢山城  (からさわやまじょう)

ある
 東武佐野線田沼駅で下車。ここから徒歩で唐沢山城へ。駅舎を出て南の方角に50mほど歩いて最初の出会いの道を東に折れて踏切を渡る。ほぼ一本道。距離にすれば2km程か。30分ほど歩けば唐沢山の麓、鳥居が見える。ここまでは平坦な道だが、ここからは坂道となる。車を使えば5,6分で到着すると思われるが、私は汗をかいて自分の足で登る。途中、私を追い越してゆく女性がいたが、競争心を抑えて自分のペースを守る。今日はちょっと膝の調子が悪い(ことにする)。30分は掛かってはいないと思うが、山上のレストハウス駐車場に到着。平日のまだ早い時間だが、駐車場には10台以上の車が。ここを訪れる人の目的はお城見物以外にあるのだろうか。他にないのであれば、お城ブームは相変わらず衰えることもなく続いているようだ。勿論、私もブームに参加する一人である。
 最近は山城を訪れることが多いが、そのほとんどは土の城。唐沢山城はいきなり石垣造りの喰違虎口が迎えてくれる。通路がコンクリートで舗装されているのは残念だが、現在は神社の敷地となっているのであれば致し方ない。むしろ神社の敷地であったからこそ、これ以上の開発がなされなかったのだろう。
 虎口を抜け枡形に入り天狗岩へ。物見が置かれていた場所というだけあって、ここからの展望は素晴らしい。天候が良ければ都心まで見渡せるらしいが、残念ながら今は春霞の季節。東京は新型コロナウイルスの影響もあってか春霞の中で眠っているように見える。
 枡形虎口の先に石垣で囲んだ「大炊の井」がある。井戸というより池のようだが、水源は何なのだろう。雨水を溜めているのだろうか、湧き水があるのだろうか。
 大炊の井の先に「四つ目堀」がある。尾根を断ち切り主郭部分と西側の郭を遮断する長い堀切。今は石橋だが、かつては木橋で戦時には木橋を曳いて敵の侵入を防いでいた。上杉謙信が唐沢城を攻めたとき、ここまで攻め込んだが城を落すことができなかったという話がある。
   
   
 四つ目堀を渡り、大手道から離れて左手の帯曲輪(三の丸)へ向かう。三の丸へ上がるには、まずその下に築かれた帯曲輪を辿ることが必要。どちらも石垣で補強はされていないが(部分的にはあるのかもしれない)高い切岸を巡らせている。自然の地形を上手く取り入れている。三の丸は二の丸を取り巻くように半円型の曲輪で、案内板には「賓客の応接間があった曲輪」と書かれている。帯曲輪であるが唐沢山城では一、二の広さを持つ曲輪。三の丸から二の丸へ進むのには二の丸の切岸下を大きく回り込む。二の丸の虎口を突破しようとすると二の丸と本丸両方からからの攻撃を受ける。 
   
 二の丸は周囲に土塁の側面を石で固めた石塁を巡らせている。二の丸は本丸への大手虎口を固める重要な曲輪で本丸の奥御殿直番武者の詰所とされる。二の丸から本丸に上がる面には大きな岩が石垣上部に積まれている。この城の特徴ともされるが、現在石垣の修復工事中で全体を写真に収めることができなかった。
 本丸には現在唐沢山神社の社殿が鎮座している。唐沢山神社は佐野氏の祖とされる藤原秀郷を祭神として祀っている。本丸の南面の石垣の高さは8m程もあり、関東では最も古く築かれたもの。本丸の虎口のうち二の丸に通じる西側が大手口、東側が搦手口となっている。搦手口は東側に伸びた尾根上に築かれた曲輪に通じる構造だが、現在はこの虎口を通ることは出来ないようだ(私の確認ミスかもしれない)。本丸の南面を下ったところに張り出した曲輪がある。ここに「南局跡」の案内板がある。奥女中の詰め所であった場所とある。さらにその南下に続く尾根上に「南城」と呼ばれる曲輪があり、現在は神社の社務所が建っているが、かつては蔵屋敷あるいは武者の詰め所であったようだ。
   
 南城から本丸下の通路を通り、東に伸びた尾根に向かう。その途中、本丸東側の中間地点を下ったあたりに「車井戸」がある。案内板には井戸の深さ25m余とも言われ、城内の重要な水源。別名「がんがん井戸」ともいうと書かれている。井戸は網目の蓋がかぶさっている。中を覗いて見たが暗くて様子は確認できなかった。
 本丸から東に延びる尾根には「長門丸」「平城」「杉曲輪」「平とや丸」と名付けられた曲輪が続いている。長門丸と本丸の間の空堀(堀切)状の場所に「長門丸・局曲輪の間の虎口」の案内板があり、3mほどの高さの土塁が喰違状に築かれている。その中へ少し進むと神社神域につき立ち入り禁止の標識がある。それ以上進むのを止めたが、見上げると本丸の石垣が見える。これを進めば本丸東側の虎口に通じているものと推測。
 東に延びる尾根に築かれた曲輪はそれぞれ深い堀切で区切られている。東端の曲輪「平とや丸」の先には二重の堀切が切られている。堀切の先は竪堀となって急斜面に伸びている。
   
 東尾根から本丸北の「士屋敷」とされる曲輪を通り、二の丸を経て大手道へ。桜の馬場とされる帯曲輪を通って枡形虎口へ戻る。ちょっと一休みして、東武佐野線の田沼駅まで歩くことにする。(2021年3月23日) 
   
 伝承によれば最初にこの地に城郭を築いたのは天慶3年(940)から天慶5年(942)、平貞盛らと平将門の反乱を鎮圧した功績により下野守に任じられた藤原秀郷という。また、平安時代後期に廃城となるが治承4年(1181)足利信綱の弟・茂俊が佐野荘司と称して廃城となっていた唐沢山城を再興して居城としたとされる。しかし実際には15世紀後半に築城されたとする説が現在では有力のようである。
 室町時代の延徳3年(1491)に佐野氏中興の祖とされる佐野盛綱が唐沢山城を修築する。戦国時代の佐野氏は越後の上杉氏、小田原の北条氏の二大勢力に挟まれ、その勢力争いに翻弄させられる。佐野氏は代々古河公方足利氏に仕えていたが、古河公方の力が衰退し小田原北条氏の勢力が拡大すると佐野昌綱は北条氏康と同盟する。しかし上杉謙信が関東に侵攻し小田原城を攻撃すると、佐野昌綱は上杉方となって小田原城包囲に参加する。永禄3年(1560)に北条氏の軍勢2万5千に城を包囲されたときは上杉軍の加勢により撤退させている。しかし上杉氏の小田原攻撃が失敗し北条氏の勢力が回復・拡大すると佐野氏は再び北条氏の陣営に寝返る。佐野昌綱と昌綱の嫡男で家督を継いだ宗綱は上杉氏から10回の攻撃を受けたが、一度も陥落はしていないという。
 天正13年(1585)佐野宗綱は足利長尾氏との争いで戦死する。嫡子のいない宗綱の後継者として、北条氏から養子を迎えようと主張する派と宗綱の弟・房綱らの佐竹氏から養子を迎えて後継者とすることを主張する派とに分裂する。これを察した北条氏は天正15年(1587)に唐沢山城を占拠し、北条氏政の6男・氏忠を宗綱の養子として佐野氏の家督を継がせる。房綱はこれに憤慨して秀吉を頼って出奔する。
 天正18年(1590)の秀吉による小田原征伐で、氏忠は小田原に籠城する。一方、佐野房綱は秀吉に従って戦功をあげる。小田原落城後に房綱は佐野氏の旧領地3万9千石を引き継ぐことを秀吉から認められる。ただし、これは2年間の期限付きであったようで、2年後の天正20年(1592)に房綱は秀吉の家臣・富田信高の弟・信吉(政綱)を養子として迎え、佐野氏の家督を継がせている。今見られる唐沢山城の石垣のほとんどは織豊系の技法で組まれている。この時代に構築されたものと推定される。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で信吉は家康の東軍に与し、家康より所領を安堵される。しかし慶長7年(1602)家康は山城である唐沢山城を廃して、新たに佐野の地に平城を築いて移城することを命じる。信吉はこれに従い直ちに築城に取り掛かり、慶長12年(1607)には新しい佐野城に移り唐沢山城は廃城となった。
 家康が突然に唐沢山城からの移城を佐野氏に命じたのは、慶長19年(1614)および慶長20年(1615)に起こる豊臣家との最終決着である大坂の陣を想定してのことだと推測する。佐野信吉は秀吉家臣の弟から佐野家に養子になり唐沢山城の城主となった。関ヶ原では家康に与したとはいえ秀吉と関係が深かった武将が関東一堅固な山城であることを誇る唐沢山城を居城としていることに、万一の場合の不安を感じたからではないのか。

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