日本の城ある記(関東の城・下野 佐野城)

関東の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 佐野城  (さのじょう)

ある
 佐野城はJR両毛線の佐野駅と東武佐野線の佐野駅が一体化している駅舎の北側にある。改札を出て鉄道線路をまたぐように南北に架けられた連絡橋の北側出口を出るとそこが佐野城址である。もっとも、佐野城址公園と書かれた案内板を見なければ、ここにかつてお城があったと気付く人は少ないだろう。よく整備された市民憩いの公園といった雰囲気だ。
 佐野城の築城が開始されたのは2年前に関ヶ原の戦が終結し勝者の徳川家康が日本統治の権力の基盤を盤石のものとはしたが、まだ世の中は充分な落ち着きを得ていない慶長7年(1602)のこと。佐野城から北に5kmほどの場所にある唐沢山城の城主であった佐野信吉は徳川家康から新たな城を築き、唐沢山城から移城することを命じられる。信吉は直ちに築城を開始し、慶長12年(1607)佐野城はまだ未完成であったが唐沢山城を廃して佐野城に移る。
 佐野城は独立丘陵に築かれた連郭式の平山城。城域は東西約370m、南北約500mの規模。主郭部分は南から三の丸、二の丸、本丸、北の丸と直線的に築かれている。主郭部全体の規模は東西約110m、南北約390m。それぞれの郭は空堀(堀切)で区切られている。本丸は丘陵の最高部に設けられ、東西約65m、南北約100mの不正形長方形。二の丸も本丸と同程度の規模である。二の丸には井戸の跡が見られる。現在主郭部分は公園として整備されているが、郭の状態はかろうじて維持している。城域を取り巻く堀は水堀であったが、現在すべて埋め立てられて住宅地となっている。
 慶長19年(1614)信吉は幕府から改易を申し渡され、嫡男の久綱と共に信濃松本藩に預かりの処分を受ける。改易された原因は諸説ある。慶長18年(1613)に起きた大久保長安事件に連座したとの説。事件の首謀者で死罪となった大久保長安とは親戚関係にあったようだ。また、同じく慶長18年に伊予宇和島藩の藩主で信吉の兄である富田信高が一族のもめごとで改易となり、これに連座したという説などがある。佐野信吉の改易により佐野城は在城僅か12年で廃城となった。
 佐野城へは唐沢山城を訪問した後に訪れた。少し急ぎ足だったが二つのお城を見て思うこと、それぞれの築城の歴史、城の縄張り、構造に興味は尽きないが、それ以上に主人公達の生き様は現代にも似た人間模様を見るようだ。時代、背景、スケールは現在と単純に比較できないほど違うものの、動乱の時代を強かに生き抜き、屈辱にも耐えてやっと掴んだ安穏。それも束の間、理不尽な力で奈落の底に突き落とされる。今も昔も重い荷物を背負って、それでも人は坂道を登り続けて生きている。(2021年3月23日)

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.