訪問記
水戸藩は徳川御三家の一つ。その居城である水戸城は絵図面で見る限りは、北に流れる那珂川と南に広がる千波湖を天然の堀とし、丘陵地に築城された堅固な城郭に見える。しかしその跡地には、残念ながら観光客を引き付けるような遺構が見られない。他の御三家、尾張と紀州には立派な城郭が残り、天守も再建されている。水戸城が見栄えのしない姿になったのは石垣を用いず全て土塁で築城されていたことが理由のようだ。跡地のほとんどが学校などの公共施設に利用されており、天然の堀であった沼地もかなりの部分が埋め立てられている。空堀もJR水郡線の用地として利用されており、当時を偲ぶ風景が見られない。
水戸で最も有名なのは水戸黄門と水戸納豆。それに梅の名所偕楽園である。偕楽園は天保13年(1842)に水戸烈公と呼ばれた徳川斉昭の命で造成されたもの。一般に開放された日本で最も古い近代的公園とされるが有事の際は軍事拠点としての役割を担っていたということなので、広い意味では偕楽園も水戸城の一部であったといえる。岡山の後楽園、加賀の兼六園も同様であったと思われる。偕楽園へはこれまでに二度ほど訪れている。今回は梅の花が咲く季節でもないので立ち寄ることはしなかったが、大部隊を集結させるには十分な敷地であるように思う。幕末ともなれば槍や刀、弓矢が主力の戦ではなく、鉄砲や大砲が主役の近代的な戦である。大砲の弾を吸収するには石垣よりも土塁の方が優れていたのかもしれないし、何より近代戦に欠かせない兵站には広い敷地を必要としたと思われる。戊辰戦争の時に水戸城は戦場とはならなかったが、ひょっとすると近代戦向けの城郭であったのかもしれない。古城のイメージはないが、これはこれで日本の城郭としての趣はあるようにも感じる。(2015年9月3日) |