日本の城ある記(関東の城・笠間城)

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 笠間城  (かさまじょう)

 
訪問記
 笠間を訪ねたのは今回で何回目になるのか記憶がはっきりしない。一度は坂東33ヵ所観音巡りで、2度目は笠間稲荷の菊人形を見るため。あと一度か二度は訪れたと思うのだがはっきりしない。ゴルフ場の帰りだったか、それとも益子町の陶器市を訪ねる行きか帰り寄ったようでもあるのだが、はっきりとしない。町の造り酒屋で地酒を買ったのだが、それが何時訪れたときなのか思い出せない。歳のせいではないと思いたいが、やはり記憶が薄れていくのは歳の所為なのだろう。いずれにしても、笠間稲荷を訪れたことはあっても笠間城を訪ねるのは今回が初めてのことだ。これまでも城の存在は知ってはいたが山城と聞いて敬遠していた。今回は城跡見学が目的。確かに歳は取ったが横浜をまだ暗いうちに出発して山城見学をしようとするのだから体力は十分にある。
 笠間城は笠間藩8万石の居城として明治まで存続した城。残念ながら建物は取り払われたが石垣や土塁、空堀の遺構が残っている。また八幡台櫓はお堂として改造されているが麓の真浄寺に移築されていると事前の知識は得ている。まずは山城を見学する前に真浄寺を訪ねる事前に写真で見ていたとおりに八幡台櫓は真浄寺の七面堂として利用されている。正面から見るとちよっとちぐはぐな感じだが裏に回れば中世城郭の雰囲気を持った見応えのある櫓。期待していなかった分得をしたような気分になる。
 笠間城跡へは大手門前の千人溜まりという場所に駐車場があるのでそこまで車で行く。山城といっても、ここまで車で入れば後はそれほどの苦労もない。とはいえ、やはり戦闘目的に造られた城である。距離は短くとも階段は急勾配であり本丸に続く石段は梯子状。しかも昨年の地震で石垣が崩
 れているので危険。歩行には細心の注意が必要で、しかも天守台への石垣は完全に崩落していて立ち入り不能。震災から一年が過ぎたが復旧しないのは地方財政が逼迫しているためか、それとも観光地としての価値が無いと判断している所為なのか。たしかに私以外にこの城跡を尋ねてきた人はいないようだ。誰にも会うことはなかった。それでも、石垣が所々崩れてはいるが自然の地形を生かした城郭の壮大さを感じることはできる。また空堀や土塁の一部も残されていて、中世城郭の趣を持った山城を堪能することはできる(2012年4月2日)  
 鎌倉時代の元久2年(1205)鎌倉幕府の御家人(下野守護職)であった宇都宮頼綱の一族の塩谷朝業がこの地を占拠。承久元年(1219)に朝業の子で宇都宮頼綱の養子となった時朝が佐白山に築城したのが笠間城の最初とされる。時朝はこの時から笠間家を名乗る。
 天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めの際に、当時の当主であった笠間綱家は宗家の宇都宮氏の指示に反して小田原北条氏に与したため、宇都宮氏によって滅ぼされる。その後しばらくは宇都宮氏による支配が続くが、慶長3年(1598)蒲生郷成が3万石で入封。このときに現在に残る城郭の骨格が完成したとされる。
 笠間城は佐白山山頂の天守曲輪を中心に、地形を巧みに利用して東から北にかけて曲輪を連ねる山城である。天守曲輪は岩山の巨石を土台として2重の天守が建てられていた。天守曲輪から下って本丸、二の丸等の複数の郭が配置され、谷筋や尾根上に多くの堀が存在。その縄張りは中世山城の様相を残している。また、関東地方では珍しい石垣も多用されている。
 

   笠間藩 歴代藩主
 家紋  入封時期 禄高  入封時藩主  
慶長6年
(1601)
3万石 松平(松井)康重(譜代)武蔵私市より入封
慶長13年
(1608)
3万石 小笠原吉次(譜代)下総佐倉より入封 慶長14年(1609)小笠原吉次は除封され、一時的に幕領となる
慶長17年
(1612)
3万石 松平(戸田)康長(譜代9下総古河より入封
元和3年
(1617)
3万2千石 永井直勝(譜代)上野小幡より入封
元和8年
(1622)
5万3千石 浅野長重(外様)常陸真壁より入封
正保2年
(1645)
5万石 井上正利(譜代)遠江横須賀より入封
元禄5年
(1692)
4万石 松平(本庄)宗資(譜代)下野足利より入封
元禄7年
(1694)
5万石 井上正岑(譜代)常陸下館より入封
延享4年
(1747)
8万石 牧野貞通(譜代)日向延岡より入封

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