日本の城ある記(関東の城・土浦城)

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 土浦城  (つちうらじょう)

訪問記
 午前中に三郷へ用があり、午後に予め予定していた通りに土浦に向かう。予定通り訪問するといっても何時もの如く事前の下調べはない。土浦に着いてから、ちょうど雛人形祭りが開催されているのを知る。さほど興味のある催しではないが、時間は十分にあったし、ついでである。目的の土浦城の見学の後に雛人形祭りの会場となっている江戸時代から続く町屋を見物することにした。
 土浦といえば霞ヶ浦のほとりに発展した町のイメージがあったので、お城も水辺を背景にして建っている姿を想像していた。残念ながらそれは外れた。それでも、霞ヶ浦の水を堀に引き込んで防御としたと案内書に書いてあったので、築城当時は水辺に建っていたのかもしれない。
 土浦城には石垣を積み上げた場所はない。すべて土塁である。また典型的な平城なので、城を見上げるような場所もない。それに本丸には東西に櫓が作られたが、天守は江戸の最初から明治に至るまで一度も造られたことがないという。貞享4年(1687)に土屋氏が入封した際は、禄高も9万5千石へと、それまでの藩高の倍以上に加増されている。9万5千石といえば大大名として扱われる存在である。その所領に建つ城に天守が存在しないのは少々さみしい気がする。とはいえ、街の一角に城跡が存在するのは憩いの場を提供する以上に人の心を豊かにさせる。賑やかな施設がないのがいい。土塁に囲まれたわずかな空間でも、この地に刻まれた歴史に思い耽ることはできる。(2011年2月20日)
  
 平安時代の慶長年間(938〜947)に平将門がここに砦を築いたとの伝承があるが確証はない。 文献上では永享年間(1429〜1441)にこの地を支配する豪族小田氏の家臣若泉三郎が築城したのが最初とされる。戦国時代には上杉、佐竹の軍勢に攻められた歴史がある。
 現在に残る城の形態を整えたのは江戸時代になってから。家康の関東入国に際して、この地は家康の二男結城秀康の所領となり、土浦城はその支城となった。慶長6年(1601)結城秀康が越前北の庄城へ転封となり、代わりに松平(藤井)信一が土浦に入城。信一とその子信吉が現在の城のおおよその形を整えたとされている。
 元和3年(1617)松平(藤井)信義が高崎へ移封となり、西尾忠永が入封。忠永の子、忠照は元和6年(1620)から7年の歳月をかけて西櫓と東櫓を建築。また、本丸の正門を櫓門に改修し、これにより本丸は水濠と柵付きの土塁、三つの櫓で守られることになった。
 土浦城は桜川の本流、支流を堀として活用。さらに霞ケ浦の水を引いて五重の堀を巡らせている。本丸を中心として二の丸、三の丸が同心円状に取り囲む。河川と沼地を巧みに利用した水城で、その姿が水に浮かんだ亀を連想させることから「亀城(きじょう)の別称を持っている。
 貞享4年(1687) に土屋政直が入封し、以後明治に至るまで土屋氏が藩主を務めた。土屋政直は将軍綱吉以降4人の将軍に老中職として約30年にわたり仕え、土浦入封時は6万5千石であった禄高も9万5千石まで加増された。
 霞が浦を利用した水運の要地であり、また慶長9年(1604)に開通した水戸街道の宿場町でもあった土浦には本陣がおかれ、旅篭、問屋や多くの商家が軒を連ねた。常陸では水戸に次ぐ第2の都市として栄えた。今でも当時のにぎわいをほうふつさせる商家がいくつか残って観光施設として開放されている。現在城跡は、本丸、二の丸が亀城公園として整備されている。鼓門櫓は楼門形式の櫓門としては関東地方で唯一残っている遺構。平成3年(1991)に西櫓、平成10年(1998)に東櫓が復元された。 
 



   土浦藩 歴代藩主
 家紋  入封時期 禄高  入封時藩主  
慶長6
1601 
 3万5千石 松平(藤井)信一(譜代)下総布川より入封  
元和4
1618 
2万石  西尾忠永(譜代)上野白井より入封  
 慶安2
1649
3万石  朽木植綱(譜代)下野鹿沼より入封  
寛文9
1669 
4万5千石  土屋数直(譜代)常陸宍戸より入封
入封時の土屋数直は老中職であった。
 
元和2
1682 
2万2千石  松平(大河内)信興(譜代、松平信綱の5男)将軍家綱付けから入封   
貞享4
1687 
9万5千石  土屋政直(譜代)駿河田中より入封   

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