日本の城ある記(関東の城・古河城)

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 古河城  (こがじょう)

訪問記
 城跡巡りであるが、古河城址を訪ねて私のように俄か城ファンはいささか戸惑ってしまう。何を如何見たら良いのかさっぱり分からない。鎌倉公方足利成氏が古河に移って築城した城であるからそれなりの歴史も格式もある城。江戸時代を通しても有力な譜代大名が城主となっている。しかし城郭の大部分は渡良瀬川の改修工事で河川敷となり、僅かに残る土塁も民家に囲まれてその雰囲気もない。解説書に予め眼を通していたのでそのことは事前に知ってはいたが、それでも何がしかの痕跡はあり、想像力を逞しくすれば昔の栄華を甦らせることができると考えていたが、そんなことはまったく不可能なお城巡りとなってしまった。現場を離れて江戸時代に書かれた城の絵図を見ながら想像するしかない。とはいえ、諏訪曲輪の一角に建てられた歴史博物館の前に移築された鷲見泉石記念館はもとは古河藩士のために用意された武家屋敷で、家老職を務めた藩士が入居していたという。他に見るべきものがないので見学することにしたが、これが結構いい雰囲気の屋敷である。当時は100坪ほどの建物で、水戸の天狗党の乱のときに水戸藩士100名ほどが一時滞在したこともあるという。現在はその半分以下になっているようだが、小振りでも江戸時代の重臣藩士が生活した屋敷の雰囲気は伝わってくる。。鷲見泉石は藩主土井利位に仕えた藩士で、藩主が大阪城代を務めた時に大塩平八郎の乱(天保8年・1837)が起こり、この鎮圧に功績があった人物。また優れた儒学者でもあっという。
 町中を歩けばもっと城下町の雰囲気に浸れたかもしれないが、古河の後に関宿を訪ねる予定なので1時間ほど滞在して切り上げる。(2012年3月25日)
   
 ”古河公方”足利利成が鎌倉から古河に移る以前、平安時代末期に源頼朝に従った武将「下河辺行平」が古河の立崎に城館を築城したのがこの地に城を築いた始まりとされる。立崎は渡良瀬川と東側に広がる沼地に囲まれた半島状の台地で自然の要害であった。
 第5代の鎌倉公方であった足利利成は関東管領山内上杉氏と争い、享徳4年(1455)鎌倉が今川範忠に占拠されると古河に移り、古河公方と名乗る。当初古河・鴻巣に居館を構えたが、立崎の城を整備して移ったという。ちなみに、このころ扇谷上杉家の重臣であった太田道灌は古河城に対抗するために江戸城、岩槻城、川越城を築いたという。当時の古河公方の勢力範囲は下総、常陸、下野、上総、安房であった。約130年にわたり古河公方は引き継がれるが、小田原北条氏の関東支配が確定的になるにつれて古河もその支配に組み込まれてゆく。最後の古河公方となった足利義氏は天正11年(1583)に嫡子を残さずに死去する。古河公方は自然消滅したが古河城には娘の”氏姫”と家臣団が残る。
 天正18年(1590)に小田原北条氏を滅亡させた豊臣秀吉は古河城に残された義氏の娘と足利国朝とを婚姻させて下野喜連川に所領を与えて、喜連川家を名乗らせ大名格も与える。喜連川家は明治まで続く。秀吉が古河公方の末裔を温存したのは関東に入封した家康を牽制するためだったという。
 江戸時代は譜代大名の赴任地となるが、寛永10年(1633)に土井利勝が入封し、城の大改修を行う。この時に天守も築かれた。古河城は西に渡良瀬川、東と西は湿地帯に囲まれた台地上にある。本丸を中心に西に二の丸、東に東帯曲輪、北に三の丸、丸の内曲輪、観音寺曲輪を配置。南に頼政曲輪(治承4年・1180に打倒平氏のための以仁王の挙兵に参戦して敗死した源頼政の首を葬ったとされる)、辰(立)崎曲輪を置き、出丸として諏訪曲輪が築かれている。
 城下には日光街道の宿場町が置かれ、徳川将軍の日光詣でには岩槻城、宇都宮城とともに将軍の宿城として重要視された城である。赴任した大名は幕閣の重要な地位に就いた者も多い。  

   古河藩 歴代藩主
 家紋  入封時期 禄高  入封時藩主  
慶長6年
(1601)
2万石 松平(戸田)康長(譜代)上野白井より入封  
慶長17年
(1612)
2万石 小笠原信之(譜代)武蔵本庄より入封  
元和5年
(1619)
11万石 奥平忠昌(譜代)下野宇都宮より入封  
元和8年
(1622)
7万2千石 永井直勝(譜代)常陸笠間より入封  
寛永10年
(1633) 
16万石  土井利勝(譜代)下総佐倉より入封   
天和元年
(1681) 
9万石  堀田正俊(譜代)上野安中より入封   
貞享2年
(1685) 
9万石  松平(藤井)信之(譜代)大和郡山より入封   
元禄7年
(1694) 
7万石  松平(大河内)信輝(譜代)武蔵川越より入封   
正徳2年
(1712) 
5万石  本多忠良(譜代)三河刈谷より入封   
宝暦9年
(1759) 
5万石  松平(松井)康福(譜代)石見浜田より入封   
宝暦12年
(1762) 
7万石  土井利里(譜代)肥前唐津より入封   

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