日本の城ある記(関東の城・逆井城)

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 逆井城  (さかさいじょう)

訪問記
 最初は逆井城に立ち寄る予定ではなかったがカーナビの装備のない私の車が方向を間違え、戻るのも面倒なのでそのまま車を走らせ行き着いたのが逆井城。城の存在そのものは以前に調べておいたので知ってはいたが、その時は町興しか村興しの目的で再建されたテーマパークのような城跡との印象だった。今回訪れてその先入観を訂正させられた。堀跡や土塁跡が戦国時代の平城の遺構にしては随分と残っている。再建された建物群も発掘調査に基づきできる限り戦国時代の様相に似せて作られている。もっと早くに訪れていればと悔むほどだ。私は生まれが東海地方である所為か関東における戦国時代の歴史に詳しくはない。どうしても信長、秀吉、家康の三英傑の活躍に目を奪われて、戦国の歴史もその視点で捉えがちだ。東国と言えば、せいぜい甲斐の武田か越後の上杉あたりまでしか興味はなかった。しかし、関東の城跡を数多く尋ねるにつけ、中世・戦国時代に関東の武士団が果たした役割の大きさを認識。またその歴史ドラマに興味を注がれるようになった。この逆井城も武蔵から北関東へ進出する最前線として、またそれを防ぐための防衛拠点として幾たびもの戦闘が行われた地である。土塁や空堀、堀の代用となった沼地の跡を散策して、国や土地を奪い合うための戦闘の善悪は別として、そこに登場する人間ドラマに私自身がシンクロする思いがする。
 城跡は坂東市の市民公園として開放されているようで、訪れた時はちょうど桜祭りの準備をしていた。例年ならこの時期すでに桜は満開だというが今年は異常気象なのかまだ固いつぼみのままだ。戦国時代の日本の気候は寒冷化していた時期だったと聞いたことがある。遠い春が来るのを待ち望む戦国時代人の気分で土塁に登り、しばし北方の空を眺める。  (2012年4月2日)
 逆井城の築城は享徳年間(1452〜1454)とされる。室町幕府の創立の功労者と言われる下野国の守護職、小山義正の5男、常宗がこの地を領して”逆井(さかさい)”氏を名乗り築城したのが最初とされる。時代は鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことに端を発した”享徳の乱”が起きる等、関東は内戦状態であった。
 鎌倉公方が古河に拠点を移して古河公方を名乗り、逆井氏は古河公方の側で活躍。しかし天文5年(1536・異説もある)小田原北条氏の勢力が北関東に進出。逆井氏は小田原北条氏に敗れ、逆井城もその勢力下となる。天正5年(1577)に相模の玉縄城主であった北条氏繁が逆井城に入り城を再構築する。逆井城は下野、常陸方面の最前線基地として佐竹氏や結城氏、多賀谷氏と対峙する。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐により小田原北条氏が滅びると逆井城は廃城となった。
 逆井城は逆井氏が築いた”古逆井城”と北条氏繁が築いた飯沼城の遺構の両方が残る。中世から戦国末期の城郭の様相を残した城跡とされる。城は江戸時代に干拓された飯沼という南北30km、東西1kmにもおよぶ沼の中央部の台地上に建築されている。
 

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