日本の城ある記(関東の城・関宿城)

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 関宿城  (せきやどじょう)

訪問記
 古河城を訪ねた後に関宿城を訪れる。この二つの城は築城された場所の自然環境や、築城されたいきさつもよく似ている。関宿城は江戸川と利根川の分岐点にあって、川と湿地を要害にした城。城跡も河川の改修工事で古河城と同じく大部分が河川敷となっている。関宿の方は模擬天守が築かれているが、本来の場所とは違う場所である。もともと天守は築かれず、三階櫓を天守の代用としていたようだが、再建された天守の構造は旧来のものとは違うようで、博物館としての機能を重視した造りだ。
 古河城も関宿城も城下を流れる河川は防護の機能として重要な役割を果たしているが、同時に河川の氾濫に常に苦しめられたと思われる。改修された河川を眺めて、土木工事が今ほど大掛かりに出来ない江戸時代によく耐えられたものだと感心する。
 観光用の模擬天守であるが、遠望するとそれなりの趣がある。残念なのは城を取り巻く城下町がないこと。戦闘だけを目的にした城ならちょっと優しすぎる面構えだ。(2012年3月25日)
 関宿城は長禄元年(1457)古河公方の家臣、簗田成助が築いたとされる。足利利成が鎌倉を追われて古河に移り古河公方と名乗って2年後である。関宿と地名にある様に利根川水系を利用した交通拠点として重要な場所であり、軍事上も重要視された。
 天正2年(1574)小田原北条氏の攻撃を受けて落城。これ以後は北条氏の北関東進出の重要な拠点となる。しかしその北条氏も天正18年(1590)に秀吉の小田原征伐で滅亡。徳川家康が関東に移封されると家康の異父弟である松平康元を城主とした。以後有力譜代大名の赴任地となり宝永2年(1705)に久世氏が入封して明治まで続く。関宿城は江戸川と利根川の分岐点にあり、利根川沿いに本丸を置き、天守に相当する三階櫓を築いた。本丸の東に二の丸、三の丸、発端曲輪、総曲輪を配置している。 
 

   関宿藩 歴代藩主
 家紋  入封時期 禄高  入封時藩主  
2万石 松平(久松)康元(家康の異父弟)家康の関東移封に伴い、三河西部より入封  
元和2年
(1616)
2万6千石 松平(能見)重勝(譜代)越後三条より入封  
元和5年
(1619)
2万2千石 小笠原政信(譜代)下総古河より入封  
寛永17年
(1640)
2万石 北条氏重(譜代)遠江久野より入封  
  正保元年
(1644) 
1万7千石  牧野信成(譜代)武蔵石戸より入封   
明暦2年
(1656) 
5万石  板倉重成(譜代)武蔵より入封   
寛文9年
(1669) 
5万石  久世広之(譜代)相模より入封  寛文11年(1671)3階櫓を再建
天和3年
(1683) 
5万3千石   牧野成貞(譜代)常陸より入封  
宝永2年
(1705) 
5万石  久世重之(譜代)三河吉田より入封   

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