日本の城ある記(関東の城・佐倉城)

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 佐倉城   (さくらじょう)

訪問記
 15年ほど前になったが、佐倉市に事務所を置いて勤務したことがある。仕事といえばバブル時代の後始末が中心業務で思い出したくないことのほうが多い。思い出したくないことは、15年も経つとほとんど忘れてしまう。もっともこれは人によるから、忘れてしまった私はもともと楽天家なのかもしれない。
 仕事の内容は忘れてしまったが、佐倉の町は忘れてはいない。佐倉城址にはもちろん何度か行った。城址公園には国立歴史民族博物館があったので、そこにも2度ほど行った。町中に残された江戸時代の記念物も仕事の合間に立ち寄り見物した。時には博物館の駐車場に車を止めて昼寝をして仕事をさぼったことも何度かある。約1年半、佐倉の町に居ただけだが、久しぶりに訪れて、なんだか故郷に帰ったような気になる。同時に、やっぱり、思い出したくない仕事も多少は甦ってくる。ちょっと複雑な思いを抱えながら、改めて佐倉城址を隅から隅まで歩いてみた。ちょっと空模様が不安な午後のひと時だったが、過去を引きずった心の整理をつけることもできなかったが、まあ、それはそれで懐かしさもある。今は心に多少の余裕はある。15年前は立ち入ることがなかった場所も今回は訪ねることができた。城郭跡をほぼ一周して佐倉城の規模の大きさを初めて実感した。石垣はなくすべては土塁であるが10万石の禄高にふさわしい規模と品格を持った城に改めてこの城の壮大さを知る。(2011年5月27日)
 佐倉城は鹿島山の西端部にあり、西側と南側を鹿島川と高崎川が取り囲むように流れ、北側は印旛沼に至る低湿地帯が続いている。
 戦国時代、天文年間(1532〜1555)に下総の守護職にあった千葉親胤が鹿島幹胤に命じて築城を着手させたが、親胤 が暗殺されて工事は中断した。千葉邦胤の代になって再び築城に着手したが、邦胤もまた暗殺されて、ついに城は完成することはなかった。城は完成することはなかったが、城の建築場所は鹿島幹胤にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになった。
 
 慶長15年(1610)土井利勝が入封し、徳川家康の命を受けて築城が再開された。元和3年(1617)に約7年の歳月を費やして城は完成した。鹿島台の西端部を本丸とし、それを取り巻く形で二の丸を配置し、東側に三の丸、北側に総曲輪を置いた。石材が近隣から調達できない地域であったこと、工事を急いだこと等から城郭には石垣を一切使用せず全て土塁。印旛沼を外堀の一部とし、自然の地形を巧みに生かした平山城である。江戸城より三重4階の櫓を移築して、これを天守の代用とした。本丸には天守の他に2基の櫓と御殿が造営された。天守は文化10年(1813)に焼失。以後再建はされていない。
 城を完成させた土井利勝は寛永10年(1633)転封となり、以後短期間に目まぐるしく城主が交代した。
 
 延享3年(1746)に堀田正亮が10万石の禄高で入封して以降は、ようやく安定した。堀田氏一族は明治まで藩主を務めた。 堀田正亮は老中主席となり、佐倉は城下町として整備されて商都として発展する基礎を作った。  
 幕末の藩主で老中職にあった堀田正睦は藩内に蘭学を奨励して、高野長英の師事を受け江戸両国で蘭方医を開業していた佐藤泰然を佐倉に招き、順天堂大学の基礎となった「佐倉順天堂」を開かせた。堀田正睦は通商条約締結時には老中首座であったが、大老となった井伊直助と対立して罷免される。
 明治になり佐倉連隊の本部が設置され、城は大々的に改造されたが、現在城跡の主要部分は佐倉城址公園として整備されている。本丸の天守台、銅櫓跡、角馬出しの空堀などの土塁が復元整理された。また北側の椎木曲輪跡には昭和56年(1981)国立歴史民族博物館が建設され、多くの見学者を集めている。
  

 佐倉藩 歴代藩主
家門 入封時期  禄高  入封時の藩主   
慶長7年
1602 
5万石  松平忠輝(家門)武蔵深谷より入封   
慶長12年
1607 
2万8千石  小笠原吉次(譜代)尾張犬山より入封   
慶長15年
1610 
3万2千石 土井利勝(譜代)下総小見川より入封   
慶長10年
1633 
7万石  石川忠総(譜代)豊後日田より入封   
 寛永12年
1635
4万石  松平(形原)家盛(譜代)摂津高槻より入封   
寛永19年
1642 
11万石 堀田正信(譜代)信濃松本より入封   
 葵の字 寛文元年
1661 
6万石 松平(大給)乗久(譜代)上野館林より入封   
延宝6年
1678 
8万3千石 大久保忠朝(譜代)肥前唐津より入封   
貞享3年
1686 
6万1千石 戸田忠昌(譜代)武蔵岩槻より入封   
元禄14年
1701 
10万2千石  稲葉正往(譜代)越後高田より入封   
葵の字   享保8年
1723
6万石 松平(大給)乗孟(譜代)山崎淀より入封   
延享3年
1746 
10万石 堀田正亮(譜代)出羽山形より入封   

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