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訪問記
JR成田線の酒々井駅から約30分ほど歩けば目指す本佐倉城の東山馬場に着く。
3月中旬にしては初夏のような陽射しが降りそそぐちょっと汗ばむような陽気。それでも本佐倉城は周りを畑地や水田に囲まれた自然豊かな田園地帯にある。長閑な空気に包まれて散策気分で歩けば身も心も爽快になる。
本佐倉城は印旛沼沿いの低湿地帯に突き出た台地上に築かれ、外郭を含めて東西700m、南北800mと広大な城域を持つ城である。ここに城を築いたのはこの地の豪族で後に下総の守護となり戦国大名となった千葉氏で室町時代から戦国時代末期まで千葉氏の居城として存続していた。因みに江戸時代に土井利勝が築城した佐倉城はここから西方に直線距離で3kmほど離れた場所にある。
素人が戦国時代の山城を歩くには縄張り図がなければ何が何だかさっぱりわからない。私はこれまでもいくつか山城を訪ねたが、それでも私は未だに素人同様である。各地のお城を巡り歩き回るのは好きであるが、学習意欲はないに等しい。あれこれ資料を読み漁ってお城を巡りするより(ただ単にめんどくさいという理由だけであるが)現地に赴き勝手にあちこち動き回って、勝手に楽しんでいた方が私としては満足である。
とはいえ、事前の知識習得を嫌っている自分の思いと矛盾しているようだが、山城に関しては事前の知識がなければただの山歩きに終わってしまう。
と、今まではそんな思いでいたが、近頃はお城ブームの影響か、有名な山城でなくても現地の案内図が完備していたり、発掘調査が行われたり、木を伐採したりして整備が進み随分歩きやすくなり、事前の準備がなく、縄張り図を用意しなくてもある程度は城の輪郭をつかむことが可能だ。しかもこれまでは城郭の整備と言えば城跡を元の状態に残すことは二の次で、気軽に散策できるように公園化することが主流であったような思いがしていたが、近頃は真面目に史跡として保存しようと心掛けているようにも感じる。
ただし、山城見学の魅力は想像力を働かせることにもある。近世の城と違い、戦国時代の山城は石垣を用いて築城しているのは少ない。土塁や掘切りなどは長い年月を経れば元の状態を留めていないのが普通であり、いくら整備をしたところで築城当時に復元しなければ、山城に興味のない者にとってはただの土の山にしか見えないだろう。
訪れた本佐倉城には縄張図や復元イラストが東山馬場の登城口に掲げられている。これを頼りに見学すれば素人の私にも事前の知識はなくとも城の概要を掴むことができそうだ。それに、想像力は働かせるうえでも下敷きになる知識があって現場を歩けば、より一層楽しみが深まる(これも自分が今まで言ってきた主張と違っているが)。
印旛沼の水際は干拓によって後退したが、本佐倉城の築城当時は城の近くまで沼地であったようだ。現在樹木で覆われた城郭も、城が本来の機能を発揮していた時代は樹木は伐採され土塁や堀の土肌がむき出しの状態であったに違いない。現在城の周りを囲む水田を沼地であるとして想像力を発揮すれば、湖上に浮かぶ堅固な城郭の姿が甦ってくるようだ。そんな思いと期待を抱いて城内に足を踏み入れる。(2018年3月14日)
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東山馬場は北側に腕状に張り出した東山の尾根と南側の高台に築かれた本丸にあたる城山、それに正面にあたる西側のW郭に三方を囲まれた平坦で広大な敷地を持つ。
東山馬場から本丸とされる城山の高い土手下の緩やかな坂道を上ってW郭に着く。途中に門の跡、W郭虎口の跡が発掘調査で見つかっているが、現在その跡は埋め戻されている。
W郭の南、奥ノ山と城山の間には6mほどの深さの堀切がある。この堀切を抜けて城山の方に折れると、城山への虎口がある。発掘調査によって虎口の手前に門の跡が見つかっている。現状の虎口は土塁も低く風化してしまっているが、おそらく今よりは土塁は高く堅固に作られていたと思われる。虎口を登ると広く平坦な城山(本丸)が目の前に広がっている。 |
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本丸とされる城山郭は全面発掘調査が行われ、その結果、主殿跡(約10m×約8m)と主殿の付属建物(約6m×4m)。主殿の奥に遠侍跡(約10m×約6m)。主殿の前方、池のある庭に面して会所跡(約11m×約13m)。会所の付属建物(茶室?約4m×約4m)。また会所の隣に4棟の建物跡(台所、倉庫、便所?)が確認されている。その他に櫓跡2か所、門跡2か所などが確認されている。城山と奥ノ山の間にある堀切には木橋が掛かっていたことが推測される場所も2カ所見つかっている。
城山(本丸)からはW郭越えにかつての印旛沼方面が遠望でき、城山の周りは虎口のある場所を除き急な斜面で防御されている。城山の見学を終え虎口を出て奥ノ山の虎口へ向かう。奥ノ山も城山と同じく平坦で同程度の広さがある郭である。奥ノ山は二の丸に相当する郭として位置付られている。 |
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奥ノ山には妙見社の建物跡が確認されている。妙見社は妙見菩薩を本尊とする信仰で、インドで発祥した菩薩信仰が中国で道教の北極星(北辰)信仰と習合して仏教の天部(形式上は菩薩であるが大黒天や毘沙門天と同じく天界に住む神)の一つとして日本に伝来したもの。千葉氏が一族の守り神とし、代々一族の元服は妙見社で行っていたという。因みに江戸時代の浮世絵師葛飾北斎も妙見信仰の信者で、その号である北斎辰政は信仰に由来している。
奥ノ山からW郭から階段状に郭が連なる最上部に位置する郭に向かう。ここには倉の跡が確認されている。炭化した米粒が発見されていることから米蔵の存在が推定されるが、詳しい用途は不明のようだ。倉庫跡がある郭からセッテイ山の間には幅20m、深さ10m、南北に100mもの長さの巨大な空堀がある。この空堀を飛び越える手段がないので、倉庫跡のある郭と奥ノ山との境目(これも虎口に相当する場所なのか?)から斜面を下り一般道に出る。斜面は結構急こう配で、一般道に出るには民家の庭を横切るような路地を進む。 |
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ほぼ一直線で緩やかな勾配の一般道を進むと、突き当りに水の手と呼ばれる樹木に囲われて草で覆われた窪地がある。窪地には水はなかったが、おそらく城の水場の跡なのだろう。本丸とされる城山や二の丸とされる奥ノ山に井戸があった形跡はない。水の手はこの二つの郭から随分と離れた場所にある。有事の際の水の確保に不安はなかったのかと気になるが、沼地に囲まれた本佐倉城ではそうした不安が起こらなかったのだろうか。目視で判断する限り水の手を守るための防御施設が見当たらない。そんなことを考えながら水の手を横に見て右方向に屈折した一般道にしたがってセッテイ山方面へ向かう。ここから一般道は少し勾配がきつくなり、その頂上あたりからセッテイ山に向かう小道がある。それを抜けると外郭とセッテイ山を遮断する巨大な空堀に出る。この空堀はセッテイ山東側の空堀より規模が大きい。北側には虎口もあり堀底道として利用されていたと推定されている。 |
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セッテイ山西側の空堀の北に設置された虎口を抜け、セッテイ山の北側の斜面に沿って進む。このままさらに進むと倉庫跡のあった郭とセッテイ山を隔てる巨大な空堀に出るが、その空堀の少し手前からセッテイ山に登ってみた。頂上部は平坦に整地されていたが、植林された巨大な樹木で埋め尽くされている。これでは目測で面積を図ることは無理だ。それにセッテイ山と記された標識があるだけで他には何もない。セッテイ山の名前の由来は「接待」からきていると言われている。また周囲が巨大な空堀に囲まれ他の郭から隔離されているようにも見えることから人質を留め置いた場所という見方もあるようだ。いずれにしろ、発掘調査はされていないようなので確定的なことは何も分かっていない。巨大な空堀にしても、元々の地形で必然的にそういう構造になっただけで、人工的に大きく手を加えたわけではないのかもしれない |
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セッテイ山と倉庫のあった郭を隔てる巨大な空堀を往復。再び元の場所に戻り、ここから東光寺ビョウ(廟?)と名付けられている広大な面積の広場に出る。出入り場所は地形的に虎口があってもよさそうな気がするが、ここには案内板はない。東光寺ビョウは名前の通りここに寺院があったと推定されていることから名付けられているようだ。築城当時はともかく、現在はこの広場を防御する為の土塁などの形跡は何もない。東光寺ビョウの全面は築城当時印旛沼から続く湿地帯であったと思われるので、大げさな防御施設は必要なかったのかもしれない。
東光寺ビョウから東山馬場、城山方面に抜ける虎口がある。この虎口は東山虎口の名付けられ、2カ所の門、蛇行した狭い通路、内舛形の郭で構成されていたと推定されている。これまでに見た他の虎口と比べ厳重な防御態勢がとられているように見える。 |
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東山虎口を抜けると東山馬場とW郭が前面に広がるが、時間も体力にもまだ余裕があるので東山馬場を腕のように囲む東山の尾根に登ることにする。ここから北側を望めば、かつての印旛沼があったと思われる辺りまでよく見通すことができる。東山はちょうど中間地点辺りでそのまま東へ延びる尾根と北に延びる尾根とに分岐する。東に延びる尾根には明確な道が見当たらないので北に延びる尾根を歩く。幸いにこの尾根の先端には見張り台のような郭が設けられている。展望もいい。この郭を訪れる見学者はいない。私一人が見晴らしの良い郭を占拠している。
何時ものことだが、私の性急な性格が今回も急ぎ足の城歩きとなった。広大な城郭跡なので時間は掛かったが、休息も取らずただ駆けずり回っていた。私の年齢から、再びこの城郭を訪れることはないとの思いからも、腰を下ろして少々長い休息をとることにした。 |
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