日本の城ある記(関東の城・大多喜城)

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 大多喜城  (おおたきじょう)

訪問記
 8月の終わりに大多喜城を訪ねた。今回が2度目である。最初は5年ほど前の真夏の太陽が照りつける暑い日だったと記憶している。外房・勝浦の海からの帰りだった。着いたのは夕刻。門はすでに閉ざされていて城内に入ることはできなかった。今回は大多喜城を訪ねることが目的で出かけた。まだ残暑の季節だが気温はそれほどでもない。横浜を出るときは雨だったが、大多喜に着いたころには雨は上がっていた。雨上がりのお城は時代劇の背景に相応しいしっぽりとした雰囲気を醸し出している。内容はほとんど私の記憶から薄れたが、子供のころに読んだ南総里見八犬伝(おそらく漫画本であったと思う。活字本であっても滝沢馬琴の原本の翻訳本ではなく解説書的な本だったと思う)の舞台を想像して、大多喜城に対してミステリアスな印象を持っていた。もっとも、八犬伝の舞台に大多喜城は登場しない。安房・上総を主要舞台に書かれた長編小説を私が勝手に思い描いているだけだ。
 大多喜城に天守閣が存在したかどうか議論が分かれているらしい。かつてテレビ番組の「何でも鑑定団」のレギュラーだった故渡邊包夫氏(実家は大多喜藩の家老職を代々勤めていたとか)が天守閣が描かれた絵図を発見し、これが復元(?)された天守の基になっているようだ。歴史上は兎も角、ここに天守が存在しても不思議ではない場所に、その場に似合った天守があるのは、観光客として何の違和感もない。コンクリート製の博物館だが、3階建ての最上階から見渡す房総の風景は戦国時代の武将の夢を私に中に甦らせてくれる。(2009年8月30日)
  
 大多喜城は大永1年(1521)上総を支配していた戦国大名・真里谷一族(上総武田氏)の当主、真里谷信清が築いたのが始まりとされる。当時は小田喜城と呼ばれていた。築かれた場所は現在の地でないという説もあったが、現在地の地下に遺構が残っているとの発掘調査の結果、当初より現在地に築かれたとの見方が大勢となっている。
 天正13(1544)に里見氏の武将正木時茂が城を攻略、以後3代にわたって正木氏が支配。天正9(1581)に里見家の内紛により正木氏が滅ぼされると、大多喜城へは里見氏の代官が派遣されることになった。
 天正18(1590)里見氏が惣無事令(秀吉が出した大名間の私闘を禁じた命令)違反を理由に上総の国を没収され、同地は徳川家康の支配となった。同時に家康の勇将・本多忠勝が10万石で入封し、大多喜藩が成立。忠勝は安房の里見氏の北上を防止する目的で城閣の大改築を行った。これが今日の大多喜城の基となった。慶長2(1601)本多忠勝が伊勢桑名へ移封され、大多喜藩は忠勝の2男忠朝が5万石で引き継ぐ。元和5(1619)阿部正次が転封されると一時的に大多喜藩は廃藩となる。城は荒廃し、寛文11(1671)阿部正春が1万6千石で入封した際は、一重の堀も、門も櫓もない状態だったといわれる。幕府より城の再建命令が出されていたが、財政難からか履行されなかったようだ。
 大多喜藩の城下町の基礎は本多忠勝によって整備された。 今も当時の町割りが残っているのかどうか分からないが、大多喜の町を散策すると、何軒かは当時の面影を残した町屋を見ることができた。本多忠勝の10万石から最後の藩主松平正久の代には2万石になったが、大多喜が当時のこの地における経済の中心地であったことは間違いないだろう。


   大多喜藩 歴代藩主
 家紋  入封時期 禄高  入封時藩主  
 慶長6年
1601
55万石 天正18(1590)に10万石で入封した本多忠勝が伊勢桑名へ転封し、二男、忠朝が別家新封  
 元和3年
1617
 3万石 阿部正次(譜代)武蔵鳩ヶ谷より入封
元和5(1619)相模小田原へ移封
 
 元和9年
1623
2万石  青山忠俊(譜代)武蔵岩槻より入封
寛永2(1625)除封される
 
 寛永15年
1638
1万石 阿部正能(譜代)入封(前任地なし)  
寛文11年
1671 
 1万6千石 阿部正春(譜代)入封(前任地なし)
元禄12(1699)幕命により城を縮小改修。
 
 元禄15年
1702
 2万5千石 稲垣重富(譜代)三河刈谷より入封。ただし、20日で下野烏山へ転封  
 元禄16年
1703
 2万石 松平(大河内)正久(譜代)相模甘縄より入封 天保13(1842)火災により天守、御殿を焼失

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