訪問記
久留里とは変った名前。近くに夷隅郡の地名もあることから由来はアイヌ語ではないかと思っていたが、よく分からないようだ。中世にはすでにこの呼び名が定着していたようで、一説には”高貴な人が久しく(長く)留まった里”との意味があるという。
今年の冬は例年に比べて厳しい寒さが続いたが、ようやく春を思わせる陽気になった。とはいえ温度計は10度を上回らない。それなら南総であればもっと暖かいだろうと、久し振りにアクアラインを通って千葉へ車を飛ばした。目的地は外房のお花畑。もっともお花畑を目的地にしたのはカミさんで、私の真の目的地は途中の久留里城。当初はアクアラインから館山自動車道で南房総に出る予定だったが、この道はもう何度も走った。たまには別な道をと、木更津東ICから国道410号線を南下、鴨川を目指すことにして、必然的に途中で久留里の町を通過するルートを選ぶ。もっともこうまで作為的にしなくとも近頃のカミさんは私がお城巡りをすることに反対はしない。互いに歳をとり、そして互いに敬老精神に目覚めたようだ。それにケンカするのも少々飽きてきた。
久留里城は久留里藩3万石、黒田家の居城。徳川時代になる前は南総里見八犬伝のモデルとなった里見一族の重要な戦略拠点。この城を巡って小田原北条氏との激しい戦闘が行われた歴史を持つ。里見八犬伝は殆どは曲亭(滝沢)馬琴の創作で、史実に基づかない読み物だが、何故か「仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌」の8文字と「久留里」という地名が私にはロマンチックな響きに聞こえて空想の世界を広げてくれる。
事前にパンフレットで確かめた久留里城のイメージは、2層3階建ての櫓程度の天守が小高い丘のに建つ小規模な城郭との思いだったが、標高145mの天守台に立って廻りを見渡せば結構厳しい山容に築かれた難攻不落の趣のある城であると認識を改める。再建された天守閣は観光目的の模擬天守であろうが、それでもこの場所に昔から佇んでいるかのように違和感なく受け入れられる。現在残る城郭の大部分は江戸時代になって整備されたもののようだが、戦国時代の山城の趣や形状がかなり残っているようにも見える。ゆっくり見て回ればこの城の面白さをもっと堪能できたかもしれないが、次の目的地へ行く都合もある。その楽しみは今度訪れた時まで取っておくことにします。(2012年2月12日) |