日本の城ある記(関東の城・佐貫城)

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 佐貫城  (さぬきじょう)

城ある記
 内房線の佐貫駅で下車。ここから歩いて約30分。佐貫城址の案内板がある大手口に到着する。大手口には石垣で築かれた櫓台がある。規模は大きくないが、千葉県ではここが唯一の石垣でできた虎口という。
 佐貫城は阿部氏1万6千石の居城として明治維新まで存続した城郭。さればさぞ立派な城址かと想像してみたが、周りの農地に同化するような佇まい。石垣の櫓台も巨石を用いたものではなく、草で覆われているので土塁のように見える。見た目では戦国時代に廃城となった城郭と大差はない。
 この地に最初に城を築いたのは永正年間(1504〜1521)真里谷氏によるとされる。真里谷氏は上総武田氏の流れをくむ家系で、戦国時代前半には上総国の西部から中部一帯を支配する勢力に発展する。
 佐貫城はその圏内に江戸湾を挟んで三浦半島と向い合う港町があり、また安房や外房方面へ抜ける街道交通の要衝であったため戦略上の重要な拠点であった。そのため幾度となく攻防戦が繰り広げられた。天文6年(1537)には真里谷氏の跡目争いに乗じて安房国の里見氏が佐貫城を奪い取る。天文14年(1545)には小田原北条氏によって占拠されている。この後は里見氏と小田原北条氏との間で争奪の舞台と化す。
 天正18年(1590)の秀吉による小田原征伐の後、関東に転封された徳川家康の家臣が佐貫城の支配者となり、以後何度かの変遷を経て明治維新まで続いた。
 大手口の虎口を抜けると三の丸のに出る。三の丸は段差によって区切られた広い面積を持つ。三の丸から二の丸の下を通る細い通路を進むと、岩盤を垂直に削った切岸にでる。これは里見谷流築城術の特徴といわれる。戻って二の丸へ向かうが、二の丸は密集した植林地となっており立ち入るのは遠慮する。
 二の丸から本丸の間には空堀が掘られ土橋が架けられている。空堀は本丸の南端部に巡らされている。土橋を渡ると本丸の虎口がある。本丸は四方に土塁を巡らせているようだが、一部は明確ではない。南端の土塁に上がり、そこから西に張り出した物見台(展望所)へむかう。物見台は江戸時代に造られたものか現代に観光用に造られたものか判断できないが、ここからは江戸湾を航行する船舶や対岸の三浦半島が一望できる。北西方面には富士の姿も見ることができる。また本丸の北端にも物見台があり、ここからの眺望も格別である。(2019年3月8日)

  佐貫藩 歴代藩主
 家紋  入封時期 禄高  入封時藩主  
天正18年
(1590)
2万石 内藤家長(譜代)家康の関東移封に伴い入封
 元和8年
(1622)
 1万5千石 松平(桜井)忠重(譜代)武蔵深谷より入封   
寛永10年
(1633)
1万5千石 松平(能見)勝隆(譜代)旗本から加増され入封 貞享1年(1684)松平重春のとき改易され一時廃藩となる
元禄1年
(1688)
1万2千石 柳沢吉保(譜代)旗本から加増され入封 柳沢吉保は将軍綱吉の側用人
元禄7年(1694)吉保は川越へ転封となり再度廃藩となる 
宝永7年
(1710)
1万6千石 阿部正鎮(譜代)三河刈谷から入封

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