日本の城ある記(関東の城・館山城)

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 館山城 (たてやまじょう) 

   
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 館山城は天正8年(1580)里見義頼によって築城されたとされるが、義頼は天正15年(1587)に里見氏の本拠である岡本城(南房総市富浦町)で病死しており、その子・里見義康が館山城に入ったのが天正19年(1591)であるので城の完成はその頃と思われる。
 この頃の里見家には天正の乱と言われる後継者を巡る争いが起きていた。義頼の父・義弘が天正6年(1578)に死去。義弘には小弓公方足利義明の娘(異説もある)との間に生まれた義頼と、古河公方足利利晴の娘との間に生まれた梅王丸という二人の子があった。義弘は自分が支配する領地のうち安房を義頼に与え、西上総を梅王丸(佐貫城を本拠とする)に与えることとしたが、これに反発する義頼が梅王丸を攻め、天正8年(1580)梅王丸は降伏して出家する。安房と上総半国の支配権を確立したのを期に義頼は館山城の築城に取り掛かったものと思われる。天正15年(1587)に義頼が死去し、その子義康が家督を相続。天正16年(1588)豊臣秀吉より安房・上総および下総の一部の領地を安堵されている。
 天正18年(1590)の小田原征伐の際、里見義康は遅参を理由(私戦を禁じた惣無事令に違反したことが理由の説もある)に上総・下総の領地を没収され、安房4万石(後に太閤検地により石高は9万1千石となる)に減封させられる。
 慶長15年(1600)関ヶ原の戦では東軍に与し、宇都宮城の守護を担当。この功により義康は常陸鹿島郡で3万石を加増され12万石となる。慶長8年(1603)義康が死去し、嫡男・忠義が家督を継ぐ。忠義は老中大久保忠隣の孫娘を妻としたが、忠隣がが失脚するに伴いそれに連座、慶長19年(1614)安房国を没収され、伯耆国倉吉3万石へ国替えとなる。これにより館山藩は取り潰しとなり、館山城も破却され廃城となる。
 現在城址は城山公園として整備され昭和57年(1982)に模擬天守が建てられている。当時天守が建てられいたか、或いは建てられていてもどのようなものであったのか分かっていないが、戦国末期を象徴する望楼式の天守は違和感なくこの場の風景に納まっている。模擬天守からの眺望は素晴らしく江戸湾を航行する船舶を見張るのには絶好の場所でもある。また模擬天守は八犬伝博物館としても利用されている。因みに南総里見八犬伝は曲亭馬琴が文化10年(1813)から天保12年(1841)にかけて出版した長編読物だが、里見家をモデルにしたとも言われている。伯耆倉吉へ国替えとなった(実際の俸禄は百人扶持程度で流罪人の扱いであったようだ)忠義は元和8年(1622)に死去するが、同時に側近8人が殉死する。馬琴はこの話をどこからか聞くに及んで執筆の切っ掛けにしたのでは。(2019年3月8日)
   

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