日本の城ある記(関東の城・鉢形城)

 関東の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 鉢形城  (はちがたじょう)

訪問記
 これまで訪ねた戦国時代の城でその後に廃城となった城郭にそれほどの期待はしていなかった。輝かしい歴史はあっても荒れ果てた城跡との思いだったが、城跡をひと廻りしてその規模の壮大さと保存状態のよさに認識を改める。急ごしらえの砦のような城ではなく近世の城郭に近い縄張りを持った本格的な城である。しかも山城ならともかく平地に近い平山城で、今日まで遺構がよく残っているのは驚きだ。農地や宅地になっていてもおかしくない。現に周辺は宅地化され、そうでない土地も農地として開墾されている。遺構がよく残っているのは昭和7年(1932)には早くも国の史跡として指定されたことが理由なのだろうか。関東には戦国時代の城跡が何百とあるだろうから、その全てを残すことなど不可能だし経済的にも無駄なことだ。しかし、歴史を辿る意味からもこうした城跡のいくつかは何時までも残すべきだ。まさしく鉢形城は残すべき城跡だと思う。 
 鉢形の地名のいわれは何だろうと地形図を見て想像してみるが思いつかない。土地の形状ではなく、この地は太古より人が住んでいたようなので、鉢の形をした土器が出土したのがいわれなのかと勝手に想像してみる。そういえば、案内書には”エドヒガン”という彼岸の頃に咲く早咲きの桜があると書いてあったが、見当たらない。既に散ってしまったのか、それとも今年の寒さでまだ咲いてはいなかったのだろうか。(2012年3月25日) 
 鉢形城を築いたのは文明8年(1476)関東管領山内上杉顕定の家臣であった長尾景信の子・景春とされる。景春は長尾家の嫡男であったが、古河公方足利成氏との戦の途中で死亡した父の家督を継げず、弟の長尾忠景が継ぐ。これに怒った景春が足利成氏の側について鉢形に城を築いた。
 文明10年(1478)に扇谷上杉の重臣・太田道灌が鉢形城を攻め、山内上杉の顕定の入城を助ける。長享2年(1488)になって今度は扇谷上杉の定正が鉢形城の顕定を攻めるが攻めきれず撤退。さらに明応3年(1494)に定正は伊勢盛時(後の北条早雲)とともに鉢形城を攻めるがこれも攻略できずに撤退する。
 天文15年(1546)に河越夜戦で勝利した小田原北条氏が関東の覇権を確立し、永禄7年(1564)に北条氏康の4男・北条氏邦が城主となる。その後も戦略上の重要な拠点であったため何度となく鉢形城は攻防の場となった。永禄12年(1569)には武田信玄が、天正2年(1574)には上杉謙信が攻撃するがいずれも落城させるには至っていない。
 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、鉢形城は前田利家、上杉景勝ら3万5千の軍勢により包囲される。北条方は約3千の兵で1か月籠城したが開城した。
 徳川家康の関東移封に伴い、鉢形城は家康の配下となり家臣が城代を務めて統治したが、やがて廃城となる。鉢形城は深沢川が荒川に流れ込む合流付近の断崖上に築かれている。本丸(本曲輪)、二の丸(二の曲輪)、三の丸(三の曲輪)を連郭式に配した縄張りを持っている。 
 

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.