訪問記
深谷城は江戸の初期には廃城となった城である。だから、深谷に城跡があるとはつい先日まで知らなかった。もう10年以上も前のことだが、深谷市は何度も訪れた場所だ。城跡があると知っていたら、多分訪れる機会はあったのではと思う。とはいえ、今回北関東に点在する城跡を巡る計画に深谷城を入れたのは、城郭の遺構に期待してのことではない。寄居町の鉢形城を訪ねた後に深谷に赴き、その後に行田の忍城を訪ねる予定である。言ってみればついでに訪ねた城跡である。急ぎ足で短時間の訪問となるが、遺構として見るべきものはないと案内書に書いてあった ので、時間的には十分だと判断した。
訪ねた深谷城は、城址公園として整備されいた。公園の案内図にはかなりの規模の城の見取り図が掲げられていたが、遺構としては何も残っていない。石垣、塀、堀は全て現代になってから模擬遺構として整備されたもののようだ。
かろうじて隣接する浅間神社の周囲に堀らしき跡はあるが、これも案内図から想像する規模からは程遠い代物。残念ながら、かつてここに城があったという記念碑程度のことでしかない。
深谷城は深谷上杉家の上杉房憲が康生2年(1456)に築城したとされる。この城を巡って攻防があったのかどうか、私の手持ちの資料ではよく分からないが、天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めで開城するまで、ずっと深谷上杉家の居城であったという。家康の関東入封後は松平(長沢)康直が城主となり、康直に子がなく、家康の7男・松千代が養子となり長沢松平家を継いで深谷城の2代目城主となる。しかし、松千代は6歳で急逝。松千代の兄で家康6男の忠輝がその後を継ぐ。慶長7年(1602)忠輝が佐倉に転封となった後、譜代大名が城主となるが、寛永4年(1627)に廃藩となり城も破却された。(2012年3月25日) |