日本の城ある記(関東の城・忍城)

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 忍城  (おしじょう)

訪問記
 今流行りの集団がいる。これも時代だから仕方がないと思うが私にはチョッと迷惑。お城の歴史を面白おかしく案内しているようだが、パホーマンスと称して我が者顔で振舞うのは如何なものか。鎧兜で身を固め、おまけに顔全体を覆うマスクまでして城の城門に立ち、見物に訪れた者を見下げて威圧するような態度は、いったい奴らは何様なんだ。私は奴らを無視して、当然相手も私を無視して、それだけの出来事で何もなかったが不愉快な気分だけは残る。おもてなし甲冑隊と呼ばれているらしいが、私は奴らにもてなしてほしいとは思わない。もっとも奴らも私をもてなそうとは考えないだろう。 
 とはいえ、そんな気分になるのは私だけのようだ。私以外のお城見物で訪れた人たちは、奴らの演技を見て結構楽しそうな歓声を上げて楽しんでいる。城跡を訪ねるのも、日光江戸村や西部劇のテーマパークを巡る感覚でないとついてゆけない時代になったようだ。(2012年3月25日)
  
 もともとこの地を支配していたのは扇谷上杉家に属する忍(オシ)一族であったが、文明10年(1478)に地元で力を付けて台頭してきた豪族・成田正等・顕等父子が忍一族を滅ぼして築城したのが忍城の始まりとされている。成田城と呼ばず忍城と呼ばれるのは、この地はすでに”忍”という地名が定着していたからと推測される。 
 
築城の翌年、扇谷上杉氏により城が包囲され攻撃を受けるが、扇谷上杉氏の家臣であった太田道灌が仲裁して、以後成田氏が忍城を領有。天文10年(1541)に起こった河越夜戦で小田原北条氏が勝利して関東一円の覇権を確定的にしたが、成田氏は小田原北条氏に従わなかった。このため北条氏康は天文22年(1553)に忍城を攻撃するも、陥落しなかった。
 
永禄2年(1559)に上杉謙信が関東に遠征すると、成田氏はこれに恭順。永禄4年(1561)の上杉謙信の小田原攻めに従軍する。しかし、同年鎌倉の鶴岡八幡宮で行われた上杉謙信の関東管領就任式で、謙信は成田長泰の無礼をとがめ、これがため成田氏は上杉から離反。天正2年(1574)に忍城は謙信の攻撃を受けるが、持ちこたえる。
 天正18年(1590)秀吉の小田原攻めの際、忍城の城主であった成田氏長は小田原城に籠り、忍城はその子、長親を城主として3,000の兵で立て籠もる。忍城は石田三成を総大将とする軍に囲まれ、総延長28kmにも及んだとされる石田堤を築いて水攻めを行う。これが日本三大水攻めといわれる”忍城水攻め”(他の二つは備中高松城と紀伊太田城)
これほど大規模な水攻めにも関わらず城は陥落せず、これが所以で忍城は”忍の浮き城”と呼ばれるようになる。ただし忍城は陥落しなかったが小田原が陥落したために結局開城することになる。
 家康の関東入封に家康の4男・松平忠吉が忍城に入るが、城の拡張・整備を行ったのは寛永16年(1639)に入封した阿部氏による。完成したのは元禄15年(1702)になってからといわれている。
 忍城はもともと低湿地帯で沼地だったところに島が点在する地形にあった。沼を埋め立てずに島を橋でつなぎ、本丸には櫓も建てられなかったという。江戸時代の縄張りは本丸の南に二の丸、三の丸を置き、北に諏訪曲輪、西に土蔵曲輪。三の丸の南に勘定所曲輪、その東に沼橋曲輪が配置されている。二に丸に御殿が建築されていた。
 

   忍藩 歴代藩主
 家紋  入封時期 禄高  入封時藩主  
寛永3年
(1626)
5万石 酒井忠勝(譜代)武蔵深谷より入封 寛永4年(1627)酒井忠勝が川越藩を継承したため一時廃藩となる 
寛永12年
(1635)
3万石 松平(大河内)信綱(譜代)入封  
寛永16年
(1639)
5万石 阿部忠秋(譜代)下野壬生より入封  
文政6年
(1823)
10万石 松平(奥平)忠堯(譜代)伊勢桑名より入封  

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