訪問記
小高い独立した丘全体が城郭であるのは見る者に非常に分かりやすい。とりわけ私のような生半可の知識しかない者にとって、松山城の城跡はその場に立って戦国時代の城をイメージするには丁度良い大きさである。狭くもなく、広くもない。それに然程整備した痕跡はないのに遺構がよく残っているのを見るのは、宝探しに訪れた冒険者のような気分になれる。そこいらを歩きまわれば何かが出てくるような気分にさせてくれる。そんな気分でやたらと歩き廻ったが、当然のことだが何も出てこない。何も出てこなかったが、なんとなく松山城の縄張りが理解できたような気がする。こんな城跡が近くに存在すれば何度も訪ねて、いろいろ調べて自分勝手にあれこれ想像してみるのも面白いと思うような城跡である。本来の登城口は南側にあるのだが、私は車をちょうど反対側の古墳時代の遺跡である吉見百穴の見学者用の駐車場に止めたので、そこから歩いて直ぐの観音堂から登る。ここも登城口の一つかどうかわからないが、沢道のような急な道(?)を構わず登る。登りつめたところが本丸の址。天気も良く東松山市の町並や、遠く秩父の山並も見渡せ爽快な気分になれる。 (2012年3月25日)
武州松山城は鉢巻のように蛇行して取り巻く市野川に囲まれた丘陵上に築かれている。築城時期は様々な言い伝えがある様で源平時代に遡る。もともと要害の地であり、この地の豪族によ砦程度のものは造られていたと思われるが、史実としては応永6年(1399)に扇谷上杉家に属する上田友直とされている。
松山城は室町時代から戦国時代にかけて、その重要性がゆえに激しい争奪戦が繰り広げられた。当初は扇谷上杉の前線基地として、東方に位置する下総古河の古河公方、北方の上野から武蔵への進出を狙う山内上杉への備えとしての役割を担った。その後、小田原北条氏の勢力が相模から武蔵へ浸透し、それに備える拠点となる。天文6年(1537)に河越城が小田原北条氏によって攻め落とされると松山城は上杉朝定が入城して居城とする。この時に城の大拡張、整備がされた。しかし天文14年(1545)の河越夜戦で河越城の奪還が失敗し、上杉朝定も死亡したことから扇谷上杉家は滅亡、松山城は小田原北条氏の支配となる。
永禄4年(1561)上杉謙信が松山城を攻略するが、永禄6年(1563)には小田原北条。甲斐武田の連合軍による攻撃で再び小田原北条氏の支配となり、上田氏が城主としてこの地域一帯を統治する。
天正18年(1590)の秀吉による小田原征伐の際、松山城は前田利家らの軍勢に攻められ陥落。家康の関東移封後は松平(桜井)家広が入城して松山藩を立藩するが、跡を継いだ松平忠頼のとき、浜松へ転封となり松山藩は廃藩となり城も廃城となる。 |