日本の城ある記(関東の城・岩槻城)

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 岩槻城  (いわつきじょう)

訪問記
 所用で三郷まで来たついでに岩槻まで車を走らす。この城は何年か前、ちょうど桜の季節に訪れたことがあるが写真に残すことはなかったので再度訪れた。今回はWebサイトに掲載する写真撮影のためだが、画になる格好の場所がなかなか見つからない。空堀や土塁の跡はあるし、かつての水濠の痕跡もある。しかし山城と違って平城の空堀や土塁の跡はちょっと迫力に欠けるし、説明のない写真では単なる風景写真になってしまう。それに本丸の跡地や主要な城郭はは宅地や公共の用地になっていて城としての全体像を捉えられない。何か面白い場所はないかと、城址公園の外周を一廻りしてみたが、思うような場所に行きつかない。北条氏築城の特徴とされる障子堀の跡が残っていると事前に読んだ解説書にあったが、探し方が悪いのか私にはその遺構を見つけられなかった。建造物の遺構としては城址公園となった一角に一旦城外に移築されていた長屋門(黒門)と裏門が再び城内に移築されて展示されている。私のような素人目にはこれが唯一城らしい遺構に見える。とはいえ、かつて広大な沼地に囲まれた城の面影が全くないわけでもない。それに城跡をそのまま残したり前の様に復元するだけが能じゃない。莫大な資金もいるし、一部愛好家のためだけに城跡があるのでもない。今は市民の憩いの場になった芝生の公園でのんびり過ごすのも悪くない。そんな気分になって、ベンチに腰をおろして長閑な時間を過ごしてみたいと思ったが残念ながら今は時間がない。もう少し暖かい気候になり桜の花でも咲いたときに訪れることがあったらそうしたいと思いつつ岩槻城をあとにする。(2012年3月14日) 
 
 岩槻城は長禄元年(1457)に扇谷上杉氏が太田道真、道灌に命じて築城させたの初めとする説と、文明10年(1478)に当時の忍城城主であった成田顕泰の父・成田自耕斉が築城したのが最初とする説があるようだ。いずれにせよ東、北に荒川が流れ、南西は低湿地に囲まれた小高い台地にある堅城である。築城当時は岩付城と呼称されたようだ。家康の江戸開府後に関東にあった城の多くが取り壊されたが、この岩槻城と川越城、忍城(行田市)は江戸を守る重要な拠点として残された。関東における名城の一つであった。
 岩槻城の支配権は戦国時代の習いとして目まぐるしく変わる。扇谷上杉家と山内上杉家との対立が関東に拡大し、大永2年(1522)太田資頼が岩槻城を攻略して居城とする。小田原北条氏が天文15年(1546)の河越夜戦の勝利により武蔵の大半をを支配するが、岩槻城は引き続き太田氏が維持。しかし、永禄7年(1564)に城主であった太田資正が留守の間に、その子氏資が北条方に内通して資正を追放。その氏資も永禄10年(1567)に三船山の戦で北条軍として里見氏と戦ったが大敗して戦死。氏資に嫡子がいなかったこともあり、その後は北条氏直の弟・源五郎が城主となり北条氏の直轄となる。
 天正18年(1590)秀吉の小田原征伐の際、岩槻城主は太田氏房(北条氏直の弟)であった。氏房は小田原城に詰め、氏房の重臣・伊達房実が2000の兵で籠城したが、秀吉方の2万の大軍に攻められて落城。1000人もの犠牲者を出したといわれる。
 家康の関東移封後は譜代家臣の高力清長が岩槻城に入る。それ以後は徳川家の譜代大名が居城とした。江戸時代を通して天守は建設されなかった。天守代用の櫓として本丸に2層2階の櫓が建てられていた。  
  

岩槻藩 歴代藩主
家紋  入封時期 禄高   入封時藩主  
  2万石 徳川家康の関東移封に伴い、高力清長(譜代)駿河田中より入封 慶長14年(1609)火災で建物の大半を焼失。再建。
元和5年(1619)高力忠房のとき、遠州浜松へ転封 
元和6年
1620
4万5千石 青山忠俊(譜代)入封  
元和9年
1623
5万5千石 安部正次(譜代)相模小田原より入封  
天和元年
1681
5万石 板倉重種(譜代)下野烏山より入封  
天和2年
1682
5万1千石 戸田忠昌(譜代)河内より入封  
貞享3年
1686 

4万8千石 
松平(藤井)忠周(譜代)丹波亀山より入封   
元禄10年
1697 
5万石  小笠原長重(譜代)三河吉田より入封   
正徳元年
1711 
3万3千石  永井直敬(譜代)信濃飯田より入封   
安永4年
1775 
2万石  大岡忠光(譜代)上総勝浦より入封  安永4年(1775)火災で建物の大半が焼失。その後再建される 

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